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イッツ・ア・スモール・ワールド

「10時になりましたので訓練を開始します。姿勢を正してください。おはようございます」


 皆がぼそぼそとおはようございますと復唱する。それからラジオ体操。そして訓練が始まる。


 おれはこの就労移行支援事業所に通い始めて半年になる。半年のあいだ、徹底的に自分を洗い出した。いわゆる自己分析というやつだ。自分史を書いてみたり、日々の体調をシートに記入したり、通院したりハローワークに相談に行ったらそのときに話したこと、思ったことを逐一書き出した。


 よく思ったことを文章にするといいと聞くが、それはその通りで頭が整理されるし、書いていて気づくこともある。しかし、その副作用もあって、嫌なことも思い出すので、フラッシュバックしたりすることもあった。訓練が終わって帰ってきたあと、電話で話を聞いてもらったり、訓練時間に面談をしてもらったりしていた。


「ここではどんどん失敗していい。失敗して、振り返って、就職したあとの人生に役立ててほしい」


 それがここに来て言われた初めての言葉だった。


 失敗しても怒られないというのは、不思議な感覚だ。幼いころからできて当たり前、できなきゃ怒られる、そうやって生きてきたので、そんな生ぬるいことで大丈夫なのかと思っていたときもあった。


 スタッフはもちろん、トレイニー(利用者のことをそう呼ぶ)の人たちも、それぞれ持病なり障害を抱えている。おれもそのうちの一人だ。プログラムに参加してもなにも発言しない人、スタッフが近くで聞いて、代理で発表してもらっている人、自分も障害者のくせに周りを斜から見ている人、ひとりひとり特徴がある。


 おれは高校生のころに精神疾患を患ったが、薬を飲むだけで特別なことはせず、大学に行き、就職した。そして社会人10年目でバーンアウトして、そこで初めて障害者手帳をもらった。


 最初はすぐに仕事ができるだろうと思って、ハローワークに通っていたが、途中で体調が悪化して就労移行支援事業所に通うことになった。


 失敗しても怒られない、たとえば加湿器の水を補充しただけでお礼を言われてさらに褒められる。なんて優しい世界なんだと思った。


 今日はプログラムに参加せず、個別訓練でパソコンで作業をすることにした。作業をしながらプログラムを聞くでもなく聞いていると、スタッフがトレイニーの発言に対して褒めている。素晴らしい意見ですね、的確な質問ですね、新しい発見でいいと思います云々。


 スタッフがおれになにをしてるんですかと声をかけてきた。おれはパソコンの画面を見せてこういう資料をまとめてるんです、と答えた。よくここまで資料を集められましたね、すごいです。それに、見やすくまとまってますし――。


 イッツ・ア・スモール・ワールドだと思った。ここはおとぎの国だ。


「○○さん、資料作成終わりました。ご確認お願いします」

「遅い!ここ!誤字あるし!まあ、いいや。あとこれもまとめておいて」

「すみません、まだほかにやることがあって……」

「この間はやってくれたじゃん。なんで今日はできないの? おかしくない?」

「すみません、やっておきます」

「あ、あとそれが終わったらこっちもよろしく」


 ――これが現実だ。おれは月200時間残業して、週に3日は会社に泊まっていた。それでも労いの言葉ひとつない。ありがとう、の一言もない。それでもおれは右肩下がりだった会社の業績を上げて、誰もやってこなかった行政に出す資料作成をした。そのおかげで監査はパスできた。持病が悪化して仕事にならなくなると、やる気がないならやめちまえ、とおれのいままでの努力はむなしく、ただポンコツになったことを責められ続けていた。いままでがんばってたんだから、という気持ちは一切無かった……。


 おれはいま、おとぎの国で社会復帰を目指している。


「――この量の作業をこなせるなら、即戦力ですよ!」


 そうスタッフが言った。おれは前職のことを話した。そして


「ここはなんていうか、優しい世界ですよね。人間関係の距離感もちょうどいいですし、うまくいえないですけど、就職したあとが怖いですね」


「……さん、これが『普通』なんですよ」


 おれはまだまだ「おとぎの国」での訓練が必要だと思った。

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