君が教えてくれるすべてのこと
静寂が叫んでいるようだ。一見矛盾しているようで、末端は繋がっているのかもしれない。
朝起きたときにいつも思う。ああ、またやかましい光が世界を照らしている、と。そして夜になると、約束通りに死なないでなんとか眠れそうだ、とそう思っている。
昼間が嫌いだ。様々な情報がノイズとなって脳を侵食する。だから外に出るときはサングラスをして耳にはイヤホンをつける。そして、なるべく静かに夜を待つ。ここでいう情報とはなにも音や映像だけではなく通り過ぎる人々の思考や飼い主と散歩をしている犬猫たちの感情なども意味する。そういった情報がカオスとなって世界中を包み込んでいる。音だけでは静かでもそれはやかましい。そう、静寂が叫んでいるのだ。
宇宙のダークエネルギーのようにあらゆる存在の間に情報というカオスが満ちているとしたら、人と人はどうわかりあえばいい?
現実は意志(=本能)が照射した表象だ。カントの言う物自体というものは無く、ひとりひとりの意志が現実を映し出す。つまり同じものを見ているようで人それぞれ違うものを見ている。それらの共有を阻むのがカオスだ。だから人々は争いが絶えない。それは大きいものから小さなものまで様々だ。結局のところ、人はひとりで生きていくしかない。誰かに自分の運命を託そうだなんて、それこそおしまいだ。波風立てずに穏やかに生活をするのが一番利口なやりかただ。
2
しかし人はとかく人のことを知りたがる。可能なら全身の毛穴の数まで知りたがるのではないだろうか。私にはそれが鬱陶しかった。それでも無下にはできず、元来の人当たりの良さから人は多くのことを私から吸い取った。私が話をすることはなかった。人が喋り、それに相槌を打つだけだ。するといろいろな人たちがいろいろな話をしてくる。その多くはどうでもいいことばかりだった。人は喋りたいことを喋り、問題に向き合おうとはせずひたすら不満を口にする。そして最後には晴れやかな顔でその問題に直面する。一種の思考停止だ。くだらない、と思いながらも私はなにも忠告もアドバイスもせず、なるがままにしておいた。往々にしてそういった人たちは話はすれども話を聞くことはしないものだ。喋るというのは麻薬に似ている。
3
私は独身だ。歳は五月で三十三になった。若いというには歳を取りすぎているし、老いているというには若すぎる。自宅やカフェでライターの仕事をしている。誰が読むとも知れない、ゴミを量産しているのだ。私はそれでいまのところ不自由なく生活をしている。独り身で寂しいと思ったこともなければ環境を変えようと思ったこともない。周りからはまだまだこれから、なんて言われるが、昨日までなにも積み重ねてこなかったのに今日いきなりなにかが起こるなんてことはありえないだろう。確かにまだ若いのかもしれない。だが二十代のころとは明らかに違っている。無限だった可能性に限界が見えている。錯覚から醒めただけだろうか。諦念とは違う、なにか底のようなものが見えたのだ。ああ、自分はこの程度の人間だったのだな、と。
数少ない友人たちはほとんどが結婚をして、中には子どももいる。皆それぞれ幸せそうだ。独り身の自由と結婚を天秤に掛けたとき、きっと結婚に傾くなにかがあるのだろう。私には知りえないなにかが。彼、彼女らはそれぞれの生活の不満を口にしながらも笑っていた。嫌なら別れればいいと思うのだが、どうやらそういう次元の話ではないらしい。不満はあれど「しょうがない」と折り合いをつけて日々を過ごす。悪くない生活だと思う。だが、私は結婚はしないだろう。したいとも思わないし、なにより精神障害を持っている。これが厄介で、情報のカオスに敏感になってしまい、半年くらい外に出られないこともある。普段できていたことが急にできなくなる。だが人と会うと人当たりがいいもので、健常者のように見られてしまう。本当は人がそこにいるだけで緊張しているというのに。それがストレスとなり、カオスに侵食され、私の自我が侵されていく。それは耐え難いものだ。ひどくなると自分が自分でなくなってしまうのだ。それくらい危うい病を抱えている。そんな自分が結婚だなんて、相手からすればたまったものではないだろう。一緒に乗り越えていくと言ったって、私自身理解できていない部分の多い病気を、パートナーにまで抱えさせるなんてあまりに忍びない。
4
行きつけの酒場があり、通っているうちにマスターと気が合い、たまに仕事に余裕があるときは畑仕事を手伝ったりしている。
ここはキャッシュオンの立ち飲みで、酒を飲めば誰とでもすぐに知り合いになれる。ここでも私は聞き役に徹する。自分の話をしても退屈なだけだ。相手も求めていない。
私は客のいない、開店してすぐによく顔を出す。フライドポテトとハートランドの生ビール。それからキープしてあるホワイトホースで水割りを飲む。ここの店の料理はスパイシーなのに辛くない。でもやはりスパイスが効いているので食べているうちに汗をかく。そして、シメにカレーを食べる。このカレーが翌朝もすっきりと目覚められる秘訣だ。
私はここに通い始めて三年くらいになる。その間、仕事をクビになったり、引きこもったりといろいろあったが、どうにかいまではやっている。マスターもそれには喜んでくれた。ライターの仕事が軌道に乗ったのは今年の二月あたりで、今月は八月だから半年が経つことになる。
マスターは最初は浅草でバーをやって、それからバブルの時期には六本木に店を構え、夜な夜な遊び歩いていたそうだ。そんなマスターが埼玉の小さな市に店を出したのはどういうわけなのかは知らない。のんびりやりたかったのだろう。そのお陰で出会えたわけなのだが。
ある夜、看板過ぎでマスターと私だけで酒を飲んだことがある。私は高校生のころに初めて付き合った彼女の話をした。彼女は天真爛漫で、無邪気で、とても可愛らしい女の子だった。当時はそんなものは知らなかったが、愛し合っていたと思う。しかし愛を知らずに育った私には、彼女からの愛を素直に受け止めることができなかった。好きで好きで仕方がないのに、どうしていいのかわからない。寝ればよかったのか? そういえば当時「アルファベットでも、Iの先にHがあるんだよ」と言われたことがある。でも私は彼女を汚したくなかった。その資格が無いと思っていた。だがいまにして思えば、彼女は待っていた。私に汚されることを。それくらい彼女の愛は深くて、優しかった。それは、当時の私には手に負えないものだった。結局好きすぎてどうにかなりそうでノイローゼになり、そのまま半ばヤケで別れた。それが私の最初で最後の大恋愛だった。その後も何人かと付き合ったが、どれも長続きはしなかった。私にとって最高の女性は、初めて付き合ったあの彼女なのだ。
付き合いたてのころの私は野暮ったくて、お世辞にも彼女ができるようなタイプではなかった。私は彼女に釣り合うようにファッションを学び、美容室へ行った。その成果はすぐに表れた。彼女も喜んでくれたし、周りの女子の目も違っていた。
いまの私の基礎は彼女でできている。
マスターは黙ってワインを飲みながら話を聞いてくれた。こんな話、人にするのは初めてだった。ちなみにいまその彼女は結婚して幸せに暮らしている。
「ありがとうね、話してくれて」
話し終えるとマスターはそう言った。
「でも最初の恋愛はそういうものだよ。佳介はまだ若いし、ちゃんと仕事もしてるんだし、これからいい出会いがあるよ」
私はその言葉にうんざりしてしまった。もう私に愛など不要だ。出会いなんて求めていない。
それから数ヶ月が経ち、私は相変わらずそこの飲み屋に入り浸っていた。
季節は冬で、メニューにはおでんが追加されていた。私は食べ終えたおでんの残りの出汁を日本酒のグラスに注いだ。
「そういう飲み方もあるんですね」
声のほうを向くと店には似合わないマッカランのロックを飲んでいる女性だった。
「出汁割りっていうんですよ。温まりますよ」
へえ、と彼女は言い、マッカランを空けるとおでんと日本酒を注文した。
「お酒、強いんですね」
「女のくせに、って思うかもしれませんが、好きなんです」
「じゃあ、よくみんなで飲みに行ったりするんですか?」
「いえ、周りは飲めないので……。だからたまにここで飲むか、あとは家で飲んでます」
このとき、私は細心の注意を払って彼女に喋らせることに注力した。下心なんてあるはずもないが、ここで私がベラベラ喋ってしまってはお互いに「いい時間」ではなくなってしまう。
「へえ、家ではなにを?」
そうですねえ、と彼女は首を傾げて、ビールですね。あとワインとかウイスキーとかもたまに、と言った。
彼女のところにおでんと日本酒が来た。
これは……。と戸惑っているので、まずはおでんと日本酒で楽しんでください。日本酒は全部飲まないように、と言い、私はキープしてあるホワイトホースで水割りを作って飲んでいた。
「ここにはよく来られるんですか?」
「ええ、仕事終わりによく」
そうなんですね、と言い、彼女は出汁をグラスに注いだ。
「あ、おいしい」
彼女は眼鏡を直して感心したように頷きながら、それでも大切に出汁割りを飲んでいた。
それからは彼女の仕事の話や好きな酒の話などをしていた。私はそろそろ酔ってきたのでマスターに挨拶をした。どうもありがとね、と厨房から返ってきた。
そこに彼女が私に声をかけてきた。
「よかったらお店変えて飲みなおしませんか?」
これは、と私は思った。確かに話していて怜悧な印象を受け、彼女はとても魅力的な女性だと思った。しかし私にはここまでだ。これ以上の関係を築く権利はない。
「すみません、ちょっと飲みすぎちゃって。明日も仕事なんで、また」
「それなら連絡先交換しません? いきなりで驚いているかもしれないけど、私、人を見る目には自信があるんです」
「それならそろそろその眼鏡も替えたほうがよさそうですね。僕はそんな立派な人間じゃありませんよ」
「いえ、そんなことはないです。初対面なのに親身に話を聞いてくださったり――たいがいの男って自分の話ばかりするものです――それに、話していてとても心地よかったんです。きっとあなたは変にアドバイスとかしないからなんでしょうね。ただ聞いてくれる。女にはそれが必要なときがあるんです」
ううむ、と私は唸った。受け入れるべきか否か。一人暮らしをしてもう十年以上経つ。今更いまの生活を変える気にはなれない。私には、誰からも干渉されない、サンクチュアリが必要なのだ。
「まあ、またこうやって店で会うってのもいいもんじゃないですか」
私はそう言って彼女に笑いかけ、コートを羽織って店を出た。マフラーを巻いてため息をつくと白い息がやるせなさをたたえて霧消していった。
5
その日も惰性で起きてそのままコーヒーを作って飲んでから煙草を吸った。一日の始まりだ。外は張りつめた空気が澱みを一掃してくれたおかげでやかましい日の光が部屋に差し込んでいる。
玄関のポストから新聞を取り、興味のある記事だけ読んだ。たいしたことは書いていなかった。それからパソコンを立ち上げて受注した案件を確認して、締め切りの近いものから記事を書き始めた。
私の書く量はそのときどきによって変わるが、だいたい月二百記事くらいを目安に書いている。この仕事は書くことよりもリサーチが重要で、それに時間がかかる。いまとなっては慣れているからひとつの記事に十五分もかからずに書けるようになった。
二十記事書いたところで休憩にした。コーヒーを作って飲みながら煙草を吸う。ふいに音楽が聴きたくなったので、音楽配信アプリでショパンを流した。
さて、もうひと頑張りだ、と音楽のボリュームを下げて仕事を再開した。仕事はだいたい昼過ぎには終わる。そのあとは簡単な昼食を食べて、仮眠を取ってから読書をしている。いま読んでいるのはシュヴェーグラー『西洋哲学史』。もう何度も読んでいるが、相変わらず難解だ。いまは上巻のアリストテレスの項を読んでいる。シュヴェーグラーの上巻はプラトンまでは簡単に、さらっとしか書かれておらず退屈だ。その代わりプラトンやアリストテレスの項は充実していて読み応えがある。
まだ陽は昇っていたが仕事も片付いたので冷蔵庫からビールを出して、それを飲みながら読んだ。すぐに酔いが回り、本を閉じてベッドへ横になった。眠りはすぐに訪れた。
目を開けて時計を見ると午後三時をまわったところだった。だいたい一時間くらい寝ていたようだ。酔いは醒めていた。また飲む気にもなれず読書をする気分でもなかったのでテレビでクラシックコンサートのアプリを立ち上げて、ヘッドホンをつけて読書のときやこうして音楽を聴くときのための小さな椅子に座った。専用のリモコンで操作をして、ブラームスの交響曲第2番を観ることにした。クラシックはなんの知識もなく、ただ好きかそうでないかでしか聴いていないが、ブラームスはなんとなく聴いていて安心できる。
いい時間だ、と思った。誰にも邪魔されず心穏やかに過ごせている。と、昨日の酒場で出会った眼鏡の女性を思い出した。もしあのとき誘いに乗っていたら、きっといまの平穏は無いだろう。その代わりに得られるものとすれば彼女の温もりとその先にある未知数の問題だ。そして、と思案は続く。あのとき彼女は私を理解しようとしていた。存在と存在の間のカオスの濁流を抜けようと私に手を差し伸べたのだ。だがそれは無駄なことだ。人と人とが理解し合えることなどない。根本的に人間は利他的で恣意的で傲慢な生き物だ。それにおそらく彼女は私に対してある種の幻想を抱いている。それに気づけば関わり合うこともなかろう。
第一楽章が終わり、観客の咳払いや衣擦れの音がする。そしてまた静まり第二楽章へ入った。
交響曲第2番が終わると、立て続けにマーラーの1番を流した。マーラーは派手なのに豪奢な感じではなく、むしろ質素な印象だ。矛盾しているようだが必要だからこれだけ派手になったんだ、というような、聴いているとそんな風に言われている気さえする。
私は煙草に火をつけてふうっと紫煙を吐き出した。会場ではこんなこと許されない。これが自宅でコンサートを観られるいいところだ。だが当然、生の音の魅力には敵わない。はやり聴くならなるべく生で聴きたいものだ。そういえば昔はよくコンサートへ行っていたが、最近はめっきり行かなくなってしまった。特に理由があるわけではない。単純に外出するのが億劫なだけだ。
世界が狭くなっているのだろうか、それとも世界が完結しているのだろうか。いつの間にかいろいろなものを手放し、遠ざけ、身軽になろうとしている。私の資産といえば原付二種のスクーターくらいのものだ。
二十代のころは世界を広げようと躍起になっていた時期だった。飲み会に誘われれば顔を出し、投機のセミナーにも出て、いろいろな本を読み(これは幼いころからだが)、映画を観て、音楽を聴いた。美術館にも足を運んだ。投機のセミナー代もそうだが、実際に投資をして失敗をして一千万くらいの負債を負った。最初は本職の休みの日に派遣を入れて、どうにか返そうとしたが、一年半くらいそんな生活をしていたら身体を壊して本職をしばらく休むことになってしまい、そこで自己破産の手続きをした。世界、すなわち可能性を広げることは、欲望も膨らませるということだとそこで学んだ。
灰皿で煙草を消したときに第一楽章が終わった。今日はいろいろ考えてしまって音楽に集中できない。たまにそういうときがある。だがこれはこれで海に漂っているようで心地いい。クラシックを聴くようになったのは大学生のころからだ。私は十八歳のときに精神疾患を患った。それとこれとなにか関係があるのかはわからないが、大学に進学したものの引きこもっていた私が、たまに通学したときに図書館でふとマーラーの交響曲第9番を手に取ったのがきっかけだった。家で聴くと終始死を連想させる響きが続き、最後には希望も無く、力尽きるように終わるように感じられたのが当時の自分はまさに私のことを演奏していると思わずにはいられなかった。音楽を勉強している人からすればこんな解釈なんて途方もなく見当違いなのだろうが、私にはそう思えたのだ。
それから留年することなく大学を卒業し、介護職に就職した。二十五歳で介護福祉士を取り、二十六歳のときに生活相談員(施設長直下の中間管理職)になったのだが、周りは面白くなかったらしく様々な形で嫌がらせをされた。男女の仲の噂を流されたり、新しい入所者が入るのに部屋が準備されておらずクレームになったり、なにか依頼をしたときも不平不満ばかりでときには怒鳴られたりもした。それでもそれは現場の人数が足りず、余裕が無いからだと思い、入浴介助や食事介助の応援に駆け付けたし、ベッドメイクをしたこともある。夜勤の人が休めば代わりに入ったりもした。もちろんその分自分の仕事は後回しになるので帰るのはいつも日付をまたいだころだった。そのまま泊まることもしばしばだった。しかし現場の人の態度は良くなるどころかむしろつけあがって、現場の仕事をことあるごとに押し付けるようになった。権利ばかり主張して義務を遂行しないのだ。そして私は二十八歳のときに一年間の休職を経て三十歳のときに辞めることとなった。
誰にも何も期待なんてしていなかったにも拘わらず裏切られたショックは凄惨なものだった。辞める直前は感情がコントロールできなくなり、よくデパスを噛んで飲み込んでいた。朝、眠気がひどくて線路に落ちたこともある。酒の量は増し、寝る直前まで飲んで朝起きたときも飲んでいた。酔うと目が冴えるような気がしたのだ。最後には昼休みにスキットルでウイスキーを飲んでいるところを見られてクビになった。とはいえ形は希望退職で、理由の欄には一身上の都合と書かれていた書類にサインをしただけだった。
そのあとは障害者手帳を取ってハローワークに行ったので、失業保険はすぐに入った。それが切れると生活保護を受けた。そのときに障害年金の申請もした。ライターの収入が安定するまで半年かかったが、いまでは保護を抜けている。現在の収入源はライターの仕事と障害年金だ。これでやりくりをしている。
はあ、とため息をついた。いつの間にか曲は終わっていた。ヘッドホンを外して棚からグラスとスペイバーンの十年を出した。ロックでちびちびやりながら映画を観たいと思ったが、興味をそそられるものが無かった。バッファロー’66のⅮⅤⅮを取ってプレーヤーに入れた。こういうときはこの映画に限る。
私は何度も観たそれをゆったりと観ながらウイスキーを飲んだ。
6
一週間くらい家から出なかった。なんとなく外界とシャットアウトしたかったのだ。私にはときどき、そういう時期がある。
家を出る気になったのは木曜日の夕方で、いつもの酒場に行った。
「ここで待っていればまた会えると思って」
この間の女性がウイスキーを手に微笑んだ。私は苦笑いをして煙草に火をつけた。
「しつこい女は嫌い?」
彼女はグラスを置いて、まっすぐに私を見た。
「いや、また会えて嬉しいよ」
「そう、それならよかった」
まるで予定調和だったかのようにそう言った。私はなんとなくその態度に苛立ちを覚えた。
「マリさんはあれから毎日来てたんだよ」
マスターはそう言ってぼくにハートランドの生ビールを出した。
横からマスター言わないでよ、と彼女の焦ったような声がした。私はカップに千円札を何枚か入れてビールを手に取った。
「じゃあ、えっと」
「古木マリ。マリは森茉莉の茉莉。茉莉って呼んで」
「僕は千葉佳介」
「ふうん、ケイスケね。うん、覚えた。じゃあ乾杯。ほら、マスターも」
二時間くらい居ただろうか、客が増えてきて茉莉は場所変えましょうと言ってきた。私たちはマスターに声を掛けて店を出た。
「茉莉、お母さんによろしくね」
「そのうちここに連れてくるわよ」
私は茉莉にお母さんは知り合いなの、と訊ねた。
「お母さんは司法書士の先生なんだ。茉莉がまだ赤ちゃんだったころからお世話になってるんだよ」
「へえ、そうだったんですね」
「六本木で店やってたときはよく来てくれたのに、最近はあんまり来てくれないね」
「お母さん、お酒やめたからね。医者に止められて」
「佳介、茉莉をよろしくね」
マスターの言葉に曖昧な返事しかできなかった。茉莉はちょっとそんなんじゃないから、なんて言って笑っていた。
私が歩き出すと彼女は横に並んだ。
「これからどうしよっか。うちに来る?」
「行かないよ」
「硬派なのね。お酒ならあるし、店で飲むより安いじゃない」
「君はそうやって男を平気で家に上げるのか?」
私の言葉に茉莉の目つきが鋭くなった。
「誰でもいい、ってわけじゃないわよ。あなただから誘ってるの。わからないの?」
「なんで知り合って間もない僕が誘われるのかがわからない」
「あのね、あなた女にそこまで言わせる気? そんなの最低よ」
私はため息をついて言った。
「僕に好意があるのなら、悪いけれど応えられない。恋人は作らないんだ」
「じゃあこうしましょう」茉莉は笑って言った。「飲み友達として、宅飲みに誘ってるの」
私はまたため息をついた。
「わかったよ」
「私の恋もあっけないものね」
「ところで」
何時間飲んでいるのだろうか。何本のビールを空けたのだろうか。私たちはビールからチリワインに切り替えて、今度はそれを片づけるようにひたすら飲んだ。茉莉の話は聡明で、無邪気で、聞いていて楽しかった。彼女は話を聞くのも上手で私もよく喋った。こんなに人と会話したのは何年、いや、十何年と無かった。私たちはよく飲み、よく喋り、よく笑った。そしてふと間が空くと茉莉が切り出した。
「なんで恋人を作らないの?」
「縁が無いんだよ」
「それ、私もカウントされてないよね」
「一人が好きなんだ。誰にも邪魔されたくない」
茉莉はグラスを空けると重いため息をついた。寂しくならないの?
ならない、と私は答えた。だいたい、と私は言った。
「他人同士が理解し合おうなんて発想がそもそも馬鹿げているんだ。人には他人に絶対に見られたくない部分がある。それを覗こうとするなんて、その人を冒涜している」
「分かり合うんじゃなくて許し合うのよ。それが理解に繋がるのは、冒涜にはならないんじゃない?」
「詭弁だよ。ならなんで君はぼくを好きだと言ったんだ? 許すため? なにを? 許されるため? なにを?」
つい語気が強くなってしまった。私はそれを誤魔化すようにワインを飲んだ。すると茉莉が私の正面から抱きついて、耳元で
「『いま、ここに居てもいい』ってことを、よ」
と囁いた。その声は、私と茉莉との間にあるカオスを抜けて私を包み込んだ。ちょうど彼女がそのようにして抱きついているように。
「本当は怖かったんでしょう? 自分はここに居ていいのか、存在していいのか、生きていていいのか――だからそうやって他人と壁を作って自立した気でいる。でも本当は誰かにこうやって、『ここに居ていいんだよ』って言って欲しかったんでしょう? だから私は言うわ。何度でも言うわ。ここに、私のそばに居て」
表象された存在の間にはカオスがありそれを超えることはできない。そう考えていたが、茉莉は弁証法によってそれを克服した。
そのとき、あらゆる種類の愛とは弁証法だと教わった。だから人と人は話し合うのだと。そうして生まれた第三の存在を共有するのだと。それは愛のイデアだ。
結局その夜、茉莉とは寝なかった。そうできたし、彼女もそれを待っていたのだろうが、頭のどこか片隅に引っかかるものがあって私をとどまらせた。茉莉のその言葉に私はもう帰るよ、とだけ言い、彼女の言葉も待たずに家を出た。
「ぼくに愛など無用だ」
酔っぱらった勢いで吐き捨てるようにひとりごちた。
7
茉莉とはどちらからともなく飲みに誘ったり映画を観たり買い物に行ったりするようになった。それは自分でも意外だったのだが苦痛でも億劫でもなく、むしろ心地良ささえ感じられたのだ。
茉莉は市内の小さな洗剤工場の経理をしている。大学を出てからずっと経理をやってきて、人間関係がうまくいかず職場を転々としていたがいまはここに落ち着いているという。残業も少なく、以前の職場のように過度にパーソナルな部分に入り込んでくる人もおらず、粛々と仕事ができるので楽だと話していた。彼女は年上の女性に嫌われやすく、お局に目を付けられると面倒らしい。それはぼくも介護施設で見てきたからなんとなくわかる気はする。彼女のようなタイプの女性はなにかと悪目立ちがする。また、経理なんて会社の裏側が見える仕事なので突っ込んでいいところとそうでないところと、会社によってツボを押さえておく必要がある。茉莉はその辺は器用にこなせるだけになおさら古株からは嫌われやすいのだ。
茉莉と出会って一年が経った。去年は意識していなかったがそろそろクリスマスだ。私は電車で都内へ出て店を見て回ることにした。
彼女はどんなプレゼントが喜ぶのだろうか。バッグや服を見たがピンとくるものはなかった。雑貨も見たがどれを選べばいいのかわからなかった。腕時計はどうだろうかと歩いていると、指輪が目に留まった。
『私のそばに居て』
出会ったばかりのころの茉莉の言葉が甦った。そうだ、茉莉となら、いや、私には茉莉しかいない。
いつだったか指のサイズの話になって、そのときに聞いたことがある。そのときの記憶をたよりに私は指輪を買った。クリスマスにあの店で伝えようと心に決めて。
家に帰ると夕方の五時過ぎだった。マーラーを聴こうとヘッドホンをつけたときに電話が鳴った。茉莉からいまから店に来られないかとのことだった。話があると。私はすぐに行くと伝えて電話を切った。部屋着からまた着替えて歩いて店に行った。
茉莉はなにも飲んでいなかった。私はカップにお金を入れた。
「お待たせ」
「単刀直入に言うわ。私たち、もう会えないの」
茉莉のその言葉は一瞬で私の思考を凍らせた。なにも考えることができなかった。
「それは……どういう意味?」
「先月から付き合ってる人がいるの。結婚も考えてる」
「ずいぶん急な話だね」
「あなた……まさか浮気だなんて言わないわよね? あなたがわたしと付き合ってるなんて考えもしなかったくせに。わたしは……一度も聞いたことがなかったわ、あなたから『好きだ』って……」
私はなにも言わなかった。
「あなたもわたしも将来のことを考える時期なのよ。それなのになにも示してくれない人といつまでも遊んでなんていられないわ。だから……」
「わかった」
私はハートランドの生ビールを注文した。マスターは黙ってジョッキに注いで出してくれた。
「もう、わかったよ」
「それだけ?」
私は黙ってビールを飲んだ。
茉莉はバッグとコートを抱きしめて外へ出ていってしまった。
「話し合う余地すらなかったじゃないか」
「追いかけなくていいの?」
「いいんですよ、勝手にすれば」
マスターは煙草に火をつけて言った。
「0.0000034パーセントなんだって」
「なにがですか?」
「ドレイク方程式って言ってね、地球外生命が存在する確率を求める方程式なんだけど、それを応用して運命の人に出会う確率を計算した人がいるんだ。その確率が0.0000034パーセントなんだよ」
私はポケットに入っている指輪の箱を触った。このままでいいのか? 私は……いや、俺は、茉莉を離したくない!
俺は店を飛び出して周りを見渡した。茉莉の背中が小さく見えた。走りながら大声で彼女の名前を叫んだ。茉莉はビクッと震えて足を止めた。
「茉莉……手遅れかもしれないけど聞いてほしい。俺は人と人はわかり合うことはないと思っていた。確かにそうかもしれない。相手を完璧に理解するなんて不可能だ。でも、だから、言葉があるんじゃないのか? 言葉を交わすことによって少しでも理解しようと努める。それが――あらゆる種類の――愛の形なんじゃないのかと思ったんだ。これは君が教えてくれたことだ。俺は君に甘えていた。だけどこれからは、互いに言葉を交わして、そうして二人で愛を育てたい。茉莉……好きです」
茉莉はゆっくりと振り返ってこちらを見た。目と目が合う。心なしか彼女の目が街灯に照らされて輝いているように見えた。
「まるでプロポーズみたいね」
「プロポーズだよ。茉莉、俺と結婚してください」
俺は指輪を差し出した。と、茉莉の甘い香水の匂いが鼻をかすめてそれが濃くなった。そして俺の胸に茉莉が飛び込んできた。
「追ってきてくれなかったらどうしようかと思ってた」
「追うよ」俺は茉莉を抱きしめた。「そしてもう離さない」
「愛してる」
その言葉はぴったりと重なった。
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