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嵐の前

「さあ、じきに来るぞ」

 翼を無くしたペガサスがぼくに言った。ぼくは窓を開けて乾いた静寂に包まれた空を見上げた。そこには何もなくて、それだけが全てだった。

 頭蓋骨に響く「あらゆる憎しみをエネルギーに!」という声が、何らかの予感とともに心を通り過ぎていく。煙草を吸っても苦いだけだったけど、それでも吸っていないよりはマシだった。

 窓を閉めてそこにもたれかかった。ペガサスはあくまで己のプライドを持ち続けていた。「おれは馬ではない」

 灰皿は吸い殻でいっぱいだった。そこへ吸っていた煙草を突っ込む。何本か落ちたけど気にしない。紫の炎がいつかに言っていた、「あんたが何者だろうと構わない。ただ郷に入れば郷に従えという言葉を忘れるな」。その言葉の通りだとぼくも思ったから。

 時計を探したけどどこにも見当たらなかった。おそらくもう夕方というには遅い時間だろう。全てを諦めたあの日から、夜を無事に越えることだけが自分に課せられた義務だった。

「じきに来るぞ」

 その言葉はたぶん誰にもわからないだろう。ダンデライオンの味がかなり苦いってことと同じように。

 ふいに氷の針がぼくの心臓を貫いた。うずくまってその痛みに唸ったがペガサスはどこにもいなかった。記憶が逆流してくる。そしてその記憶は歪められていることをぼくは知っている。ほかの誰でもない、自分自身の手で歪めたのだ。

 どこからか風が吹いてくる。それはとても柔らかくてなんだか心地よかった。あらゆる過去が幻になったとき、ぼくは絶望よりも恐怖を覚えたものだった。

 冷蔵庫からビールを出して一口飲んだ。妙にアルコール臭かった。風は止んでいた。氷の針は溶けて無くなり、ぼくは泣きたかったけれど感情が麻痺していてなにも心動くことはなかった。

 電話が鳴った。取りに行くのが面倒で、そのままにしておいても鳴り続けている。

いつまでも、いつまでも。

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