見出し画像

昨日と同じ今日、今日と同じ明日

 日付が変わった。おれは家で夕飯を兼ねた晩酌をやりつづけていた。トリスクラシックのハイボールをひたすら飲んでいた。まるでそういう業務かのように。もやし炒めの盛られていた皿にはもう何もなかった。一時間前に寝る前の薬を飲んだが、眠気はやってこない。そもそも眠りたくなかった。

 レキソタン五ミリ一錠、リスペリドン三ミリ一錠、デエビゴ五ミリを二錠、ラツーダ二十ミリを二錠にサイレース二ミリを一錠。この五種類七錠の薬を飲んでやっと眠りにつける。が、いまは必要ではない。

 茉莉、ととうに別れた女性の名前を呟いた。あの店に行けばまた会えるかもしれない。いや、それはおれには必要のないことだった。

 別れて感じたのは開放感だった。茉莉のことは確かに愛してはいた。しかしその愛とやらが次第にお互いの心臓を握るようになってから様子がおかしくなった。

 おれの茉莉に対する愛は、確実に凶暴なものへと変わっていた。茉莉のいない人生なんて考えられなかった。彼女は確かに愛を注いでくれた。しかしそれは喉の渇いた人に塩水を与えるようなものだった。いや、いまにして思えば、愛とは元来、そういう類のものなのかもしれない。

 そしておれは病気がまた悪化して仕事ができなくなった。仕事はおろか、生命活動も必要最低限しかできなくなっていた。茉莉は毎日家に来てくれたが、だんだんとそれが煩わしくなり、完全に仕事が途絶えてまた生活保護を受給することになったタイミングでこちらから別れを切り出した。

 茉莉は泣いていた。おれが「もう別れたい」と言い、それに対して何も訊かず「わかった」とだけ言って、泣いた。肩に手をやるともたれかかってきたので、おれは彼女を強く抱きしめた。ごめん、と何度も言いながら。

「もう大丈夫」と、しばらくそのまま泣いてから茉莉は言った。そしてハンカチで涙を拭うと何も言わずに家を出た。

 これで終わったんだ、と思うとおれも泣きたくなったが、おれには泣く権利なんて無い。これでまた一人か、と思うとなぜだか心が安らいだ。

 それからは食事はデリバリーサービスで済ませてひたすら動画配信アプリでラブコメのアニメを観ていた。たまにシリアスなものも観たが、だいたいが日常系のものだった。

 別れてから一ヶ月が経ち、おれは十キロ太った。ヒゲも伸びっぱなしだった。一ヶ月間、一歩も外に出なかった。アニメ観て、食って、寝る以外何もしなかった。寝ると言ってもこの数ヶ月、眠りにつくと耳鳴りと金縛りにあうのでろくに眠れなかったのだけど……。

 外に出たのは薬が無くなったからだった。一ヶ月ぶりにかかりつけの精神科に行くと、薬が変わった。毎食後の薬がソラナックス〇・四ミリが一錠からレキソタン二ミリを二錠に変わり、寝る前の薬もデパス一ミリ一錠とレンドルミン〇・二五ミリ一錠から大きく変わった。

 その後も通院と買い物以外は外には出ず、ひたすらアニメを観ていた。観たくて観ているのではない。時間が早く過ぎるのを待つためだ。言うなれば死への早送り。なにもする気にもなれず、ただただ頭と身体が重く、ほとんど廃人だった。それが半年続いた。

 特に何かきっかけがあったわけではない。少しずつ気力が出てきて荒れた部屋を片付け、自炊をするようになり、読書ができるようになっていった。朝には散歩もするようになった。

 久しぶりの外、十二月の空は悲しいほどに美しく澄んでいた。

――そして、いま。トリスクラシックの4リットルペットボトルにポンプ型のディスペンサーを付けたその名も「アル中製造機壱号」でハイボールを作って飲んでいる。

 これからのことなんて考えられない。考えても無駄だ。これまでのことばかり考えるが、これも無駄なことだ。過去は変えられず、未来は予測不能だ。だから今、この一瞬を大切にしなければならない。おれは弱者だ。まずはそれを認めることからだ。過去に自分がやってきたことなんて犬に食わせて、この一瞬を楽しもう。統合失調症という病気の性質上、あれこれ計画を立てたところで不調の波が来ればすべておじゃんだ。

だから、お願いだから今だけは酔わせてくれ、と願っても、酔いは来ず、眠気も来ない。おれはただただハイボールを流し込む。

クラシックコンサートのアプリでマーラーの交響曲第1番から順に流していって、今は第4番だ。眠りたくなかった。眠ってしまうと朝が来てしまうから。そうするとまた一日生きなければならないから。

茉莉、とまたひとりごちた。もう飲む気にはなれなかった。グラスを置いて煙草に火をつけた。煙草はとても苦くて吸えたものではなかった。すぐに消してそのまま横たわると、眠りはすぐに訪れた。

気がつくと朝だった。紛れもない朝。疑いようのない朝。絶望の朝。

肺にコンクリートを流し込まれたような重苦しさがある。頭はろくにはたらいておらず、ただ今日も死なずに起きてしまったことを悔やんでいた。

便所に行って小便をした。それから流しで水を飲んでコーヒーを淹れた。煙草を吸いながらコーヒーを飲む。そういえば今日は生活保護費の支給日だった。銀行のアプリで確認するとすでに振り込まれていた。だからといってなにをするでもない。なにもしたくなかった。食べたいものもない。最近は食べると気持ち悪くなって吐いてしまう。

なんとなく腹が減っているような気がしたが、食べる気にはなれなかった。頭と身体がものすごく痒かった。そういえばこの一週間風呂に入ってなかった。煙草はとうに吸い終わっていた。おれはコーヒーの最後の一口を飲み干すと湯船にお湯を張った。

その間にテーブルを片付けて洗い物をした。それから朝の薬を飲んで、また煙草を一本吸ったころにお湯が溜まった。

気持ち悪かったので先に身体を洗って、それから湯船に浸かった。スマホで音楽を流して、それを聴きながらゆっくりと息を吐いた。だんだんと身体のこわばりが弛んでいって、それとともに精神的な緊張もほぐされていった。無意識のうちに緊張していたんだな、と思った。脳がくすぐったいような感覚がした。

一時間くらい入っていただろうか、煙草が吸いたくなり、歯を磨いてから風呂を出た。寝間着から部屋着に着替えたがいまひとつシャキッとしなかった。重力に負けそうな倦怠感が強かった。おれはもう一度寝間着に着替えて布団に入った。すぐに眠ってしまった。

起きると昼の一時を過ぎていた。相変わらず食欲は無かった。ふと、部屋の掃除をしようと思った。ホコリ取りでテレビやパソコンなどのホコリを払ってから掃除機をかけて、雑巾で仕上げた。トイレも掃除した。風呂場は、湯船はいつも入ったあとに洗うので、床と壁を磨いた。

全部で一時間かかった。狭いからそこまで時間はかからない。イメージビデオで一週間ぶりにオナニーをした。果てたあと、おれはオカズにした女の子を見ていた。インタビューでイギリスとウクライナのハーフだと言ってた。とてもかわいかった。

おれはパソコンを閉じてパンツをはいた。窓の外は晴れていた。なんとなく、ほんの少しだけ気分が良かった。おれはいつものワンマイルウェアにダウンジャケットを着替えて外に出た。

住宅街を歩いているのは楽しい。いろいろな家がある。いろいろな車がある。いろいろな生活がある。下校する小学生の通学班とすれ違った。なんだかキラキラと輝いて見えた。将来はきっと明るくて、いまはもっと楽しくて、この子たちには絶望という井戸の底を見せたくないと思った。キレイはキタナイ、キタナイはキレイ……。

バス通りを抜けて土手へと出るとそこは公園になっている。公園には中学生くらいの子どもたちがボールを使って遊んでいた。おれは自販機で缶コーヒーを買って、それを眺めながら煙草を吸った。

公園は、土手の上を一周できるようになっている。おれはその道を歩いて帰路へとついた。

みんなそれぞれの人生を生きていた。一生懸命に。通り過ぎた人、すべての人たちに無条件の愛を!そしておれの今日は終わり、今日と変わらない明日が待っている。

だがその前に酔わせてくれ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?