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最悪。

昨日、人が亡くなった。病死だった。

今日も、人が亡くなった。人身事故だった。電車とぶつかってバラバラになったとかならなかったとか。私は電車に乗る前にその遅延情報を知ったので詳しいことは分からない。SNSには現場の写真たちが載せられている。人が亡くなって、電車が遅延すると怒る人がいる。電車は救出活動と点検を終えると当たり前のように動き出す。何も無かったかのように。日常に戻る。誰かが亡くなったその日は誰かにとっては日常で、他の誰かにとっては嬉しい日で、悲しい日で。人それぞれの人生を送っているから、人が亡くなって怒る人がいてもおかしくはないのかもしれない。でも私は、そんな人にはなりたくない。と、思った。看護師という仕事をしているからこそ、学生の頃から誰かが亡くなる瞬間を看てきた。関わりがなくても悲しいし、どこか心に穴が空いた気分になる。それは私自身が、身近な人の死を体験していることも関係しているのかもしれない。

私が身近な人の死を意識したのは幼稚園の時。
親戚の叔父さんが亡くなった。
あまり会ったことのない叔父さんだった。でもみんなが悲しんでいたから、幼稚園の私でもなんとなく察した。誰かと別れた時より、誰かが亡くなった時の方が心の穴が大きい気がする。それは、会えるか会えないか。生きてるか生きてないか。その違いがあるから。

次に人の死を意識したのは、中学3年生の時。
私の大好きなばあちゃんが亡くなった。
ガンだった。
私は受験生だったこともあり、1週間に一度しか会えなかった、でもその時少し照れ臭くてばあちゃんに何もいえなかった。また来週ね。その一言しか言えなかった。お母さんはたまに、ばあちゃんの名前を大きな声で叫ぶ。何回も叫ぶ。その声を聞くたびに私は心が苦しくなる。お母さんには、『うるさい』なんて冷たい言葉を言ってしまうが、内心、お母さんの叫び声で私も泣いてしまいそうになるから、せめて私は強くいたいと思って強がってしまう。

人は突然、前触れもなく亡くなるし、前触れがあっても心の準備なんてできない。
一生、何年生きても、どれだけ良いことをしても会えない。そう、会えないのだ。声も聞けない、触れることもできない。
それが、人が亡くなるということ。

自分がここまで生きてこれた奇跡と、色んな人に出会えた奇跡に感謝しながら、これからも生きていきたい。

ありがとうを伝えられる、優しい人は
絶対強い。

今までありがとう。どうかこれからも。

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