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他者理解のすすめ

皆さんおはようございます、こんにちは、こんばんは。本日は「他者理解」についてお話ししていこうと思います。その前に少し教育に関してお話ししなくてはならないことがあります。

はじめに〜学習指導要領の改訂〜

<なぜ教育は変化するのか?>
そもそも学校は未来の社会を担う人に育成するための教育機関です。刻々と変化する社会システムに対応するために教育が追いつかなければならないのです。その意味で、「教育」というのは重要な価値を占めると言えます。教育は、「未来」役に立つことを「今」学ぶ、という側面を持ちます。

<新しい時代に必要となる資質・能力>
簡略化していうと、いわゆる「グローバル化」や「情報化社会」に対応するために必要となる力を、教育によって身につけるわけですが、そのために必要な力を文部科学省は3つ挙げています。

<学力の三要素>
・生きて働く知識・技能の習得
・未知の状況にも対応できる思考力・判断力・表現力等の育成
・学びを人生や社会に生かそうとする学びに向かう力・人間性等の涵養
 ┗これからの時代に社会で生きていくために必要な、「主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度(主体性・多様性・協働性)」を養うこと。
文部科学省作成「平成29年度小・中学校新教育課程説明会(中央説明会)における文科省説明資料」を基に作成。

特に3つ目の「主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度」ってどんなものなのでしょうか?
そこをひもとく鍵に、「他者理解」があるのだと考えます。

「他者」とは何か?

他者理解について考える際に参考にすべき書籍があります。この書籍は著者が10歳の娘メリエムに問いかけられた疑問に対して答えていくという対話型で進行していきます。どちらかというと欧米諸国特にフランスにおける「人種差別」を議論の中心としているので、日本にそのまま当てはめられない部分もありますが、内容を参考にしながら日本に当てはめつつ今日は進めていきましょう。

<参考文献>
タハール・ベン・ジェルーン『娘に語る人種差別』、松葉祥一・訳、青土社、2007年。 と、その原文です。

<用語の整理>
・「人種差別」とは?・・・私たちとはちがう身体や文化を持つ人々を警戒したり、軽蔑したりすること。そして、生まれたての子どもにこの感覚はないが、親たちからの教育によって人種差別的な思想を植え付けられることがある。
・「違う(差異)」とは?・・・似ていることや同じことの逆。
  ┗たとえば①性 ②肌の色 ③文化(言語や信仰)④生き方や考え方 などが自分とは異なっている状態。
→必ずしも嫌っているわけではなく、違うことへの「恐怖」がその原因。

「人種差別」ということは日本ではあまり身近ではないかも知れません。ですが、やがて「グローバル化」の名の下にいろんな人種の人々が日本にこれからどんどんやってくるでしょう。すでに移民や難民の受け入れが問題となっている以上、遠くない将来でしょう。

そして「他者」とは、上記①〜④などが違う人々のことを指します。そういった人々に対し、我々は少なからず恐怖心や警戒心を持ちます。それ自体は当然のことと言えるでしょう。人間は誰しも(あるいは動物も)未知との遭遇は不安になるものです。ですが、そこからどう「理解」し、「協働」していくのか、これこそが今後の社会において必要な力であると言えます。

他者理解の仕方

ではどのようにして他者を理解するのか。もちろん完璧に理解する必要はありませんが、理解する姿勢を見せるかどうかは非常に重要です。そもそもその姿勢が欠如しているがゆえに「差別」や「偏見」につながるからです。

<他者を理解するための方法>
・相手の意見に耳を傾け、お互いを知ること。対話し、笑い、喜びや悲しみを共有すること。
・特定の「〇〇な人々」として見るのではなく「あなた」個人として対話すること。
┗相手を理解するために必要なのは、知り合う前に判断する「偏見」なのではなく、「対話」なのです。
・「本性」の部分だけでなく「教養」の部分も磨いていく必要がある。
┗文化を学ぶことで、世界の中に存在するのは私たちだけでないこと知る。そして「他者」が同じように存在し、同じように価値があることを学ぶ。

もう少し要素を分解して詳しくみていきましょう。

「偏見」からは恐怖心しか生まれない

「偏見」とは相手と知り合う前から「この人はこういう人だ」とか、「この人種はこういう奴らだ」と決めつけ、前もって判断することを言います。そして人間はよくこの考えは正しいと考えがちです。見た目でその人のことがわかる、というものです。
「偏見」を持つことで、人間は恐怖心を抱きます。なぜか、それは他者に対し「レッテルを貼る」ことで不安を解消したいと考えるからです。未知の存在に対して名前をつけるということはよくありますよね。「名前をつける」という行為により安心感や安堵感を得るだけであり、それでは「個人」との対話にはたどり着くことはできません。「レッテルを貼る」という行為そのものが、個人を見ずに特定の集団を指す総称になってしまうために、そこから嫌悪や憎しみの感情に変化していくと人種差別あるいは戦争の引き金になりかねません。
でも、長らく日本でも「レッテルを貼ること」で安心感を得て、仮想の敵みたいなものを生み出すことで、謎の「一体感」を創出してきたのではないでしょうか。その対象は、「先住民」だったり、「外国人」だったり、「LGBT」だったり。
そもそもそういう「一括り」で考えているから、同時に「私たちのグループ」ができて敵対しちゃうんですよね。「個人」として考えて1:1の関係で考えれば対等に考えることだってできるではありませんか?
大事なのは、「レッテルを貼」り、安心感を得てなんとなく理解することではなく、相手を「あなた」個人として捉え、対話をすることで理解しようとする心なのです。

「教養」によって他者を理解する

そして、他者を理解するために必要なのは「教養」であると筆者は説きます。人間には先天的な「本性」の部分と、後天的な「教養」の部分から成り立っています。本性の段階ではまだ差別的な感情は抱いておらず、教養の部分において、親や先生などによる教育の影響で差別的感情が芽生える可能性があると述べています。
だからこそ教育の役割って大きいのではないでしょうか。裏を返せば「質の高い」教育を受け、「教養」を身につければそういう感情は生まれず、世界は平和になりますよね。人種差別と言うのは、特殊な例から出発して一般化することであり、「〇〇人はこういうやつら」とか「〇〇な人たちって大体こう言うことをする」などのように差別的感情を抱いてしまう。だからこそ個人として尊重することが求められます。

・戦争はなぜ起こるのか?
植民地支配の名残としての民族的対立や経済格差による対立がほとんどです。しかし、これらはそもそも先述した「レッテルを貼る」という行為によって「自分たちは相手よりも優れている」と考えるがゆえなのです。ヒトラー政権のユダヤ人虐殺はその好例でしょう。
そしてこれらは教養によって乗り越えられるのだと筆者は主張します。

・教養って、何を学ぶこと?
どちらかと言うと、学んだ結果が教養になるわけなのですが、結論から言うと、文化の多様性を学びます。世界には様々な人々がいてそこには異なる文化や伝統があり、多様な考え方を持つ人々が暮らしていると言うことです。そして、他者を「尊重」することを学ぶ。

それに、人々は愛されることを求めているのではなく、人間の尊厳という点で、尊重されることを求めている。尊重というのは気をつかうことであり、敬意をはらうことだ。それは、相手の言うことに耳を傾けることができるということだ。  同書p.60より引用

これらを教養として学ぶことで、差別や偏見という感情を乗り越えることができるのだ。
であるからこそ、「主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ」ことが可能になるのです。

まとめ

最後にまとめると、「他者」を理解するためには
・「個人」として相手の意見に耳を傾け、「尊重」すること
・そこには様々な「個人」がいて、異なる伝統や文化を持っているということを知る
・そのためには「教養」が必要であり、学び続ける必要があるということ
が重要なのです。

また本書では、日本ではまだあまり問題になっていない移民の話、宗教の話なども説明しています。今回は概略的に、かつ日本的に(この言葉が適切かはわかりませんが)「他者理解」について読み解く趣旨でしたので、割愛させていただきました。異なる民族や宗教を持つ人々についてだけでなく、同じ言語や文化、環境内でも同じことが言えると思います。考え方の異なる人々とどう協働していくのか。本当に仕事ができる人は「考えの異なる人をどう巻き込んで一緒に仕事するか」を考え、実践できる人だと思います。
気になる方は是非本書をご一読ください。

最後までご覧いただきありがとうございました。
「他者」に出会ったとき、参考にしていただければ幸いです。

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