8. 始めの一歩

 T先生の名前を検索すると、ある先進医療の特集記事がヒットした。Z病院はこの臨床試験に参加していた。ああ、前の病院の医師が「地域のがん診療連携拠点病院でやっている」と言っていたのはこのことか。

 ラジオ波焼灼療法。患部に刺した電極針にラジオ波を流し、癌を死滅させる。対象は、癌の長径が1.5㎝以下、浸潤もしくは非浸潤性乳管癌、リンパ節転移がない、前治療なし、など。

 私も対象に入るかも?乳房を切除せずに済む。傷が針痕だけで済む。
 術後5年間は経過観察があり、万が一癌が焼き切れていなかった場合はそこで切除手術のフォローが入る。保険適用の手術ではないが、払える金額だ。
 まだやってるのかな。受けられるかもしれない。初診の時に訊いてみようか。
 ますますT先生の診察がどうなるのか気になった。


 5月1日から始まっていた職業訓練をいよいよ休まなければならない時がきた。
 期間中も保険が給付される為、休講手続きには明確な理由と領収証の提出が必須だ。朝9時40分から午後4時10分まで、平日ほぼ毎日、3ヵ月間。今までの診察は受講後と土曜に受けられたが、今度からそういう訳にはいかない。

 授業終了後、受講生が全て居なくなったのを見計らい、校長である若い講師に相談した。隠しきれることではない、癌であることも告白した。

 「辞めなければいけませんか?」
 私の問いに講師は、
「私の考えはこうです。この先しばらく就職予定は立ちませんよね。職業訓練校は終了後3ヵ月、結果を追跡して報告しなければならない。なので、ギリギリまで受講して退校する。そうすれば、受けたい授業を受けられるし、私たちも報告せずに済みます。」
と提案した。
 職業訓練を請け負うスクールは受講生の就職率で評価が決まる。早期に就職が成立しない生徒はお荷物になってしまうのだ。

 「周りの人にはどうしたらいいか…。」
 朝の授業前に一分間スピーチという課題があり、次のテーマは「私の就職活動」だった。この際病気を告白し、治療と就職について考える機会にするのもアリかと思った。

 「言わないでください。『病気で就職出来ないのに受講しているのはおかしい』と指摘される可能性があります。」
 給付が絡んでいるだけに、こういった問題はシビアだ。
 交通費申請の書類作成時に、“電車通学の受講生が雨降り時に誘われて車通学生の車に一度同乗したのを他の受講生にチクられ、交通費を全額返金させられた実例”を聞いていた。修羅の世界だ。
 「スピーチも嘘を言ってください。ネットで求人検索しているとか。」
 はぁ。1分も架空の話を作るのか。

 受講前は、この3ヵ月で取れる資格を全て取る、と意気込んでいたが、半月でつまずいた。
 検査結果がはっきりするまで何も手につかない。頭の中は乳癌のことでいっぱいだ。
 おまけに授業は詰め込みだった。項目がギッチリで、テキスト1冊を6日で終わらせる。上級クラスだった為、私のショボいPC知識は初日の2時間で消化、それ以降は未知の領域に入った。しかも導入されていたのはOffice 2016で、自宅のパソコンの2010ではテキストが使えず、ろくに予習も復習も出来ない。入院が受講期間中になる可能性もあるし…。

 なんとか食いつこうと思う気持ちも徐々に薄れ、Officeの試験は落ち着くまで諦めることにした。とりあえず取れるものを…、秘書検定2級の資格だけでも…。

 たまたま選んでいた試験会場が病院と近かった。受験日は6月17日、日曜日。試験が終わるとX駅に戻り、Z病院までの道のりを歩いた。明後日もう一度、ここに来るんだ。


 6月19日火曜日。
 9:30 初診受付。診療情報提供書とCD-Rを提出。受付ロビー脇で身長と体重の測定。覆いがなく、暇を持て余す待合客からの興味深げな視線を浴びる。その後衝立で区切られたブースに移動し問診。診察券発行。この段階で受診予定の10時を軽く超えてしまった。

 10:20 乳腺外科受付へ。診察室の前のソファに座り、問診票に記入しながら呼出機が鳴るのを待つ。いつもこの位の混雑なのかな。
 11:40 呼出機からメロディが流れた。

 「はじめまして。」

 扉を開けながら声をかける。
 初めて見るT先生は、写真のままだった。なんとなく、森のくまさんとか、ドカベンのような雰囲気。説明の仕方もサバサバと気さくだ。
 大柄なせいか椅子が近く感じる。パーソナルスペースが他の先生より狭い印象。

 持参したデータから、現段階での診断結果は前病院と同じく、右側の非浸潤性乳管癌。
 K病院が作成したCD-Rは画像が読み込めなかった、と一枚返却(自宅PCでは見られた)。

画像1

 超音波検査のデータだった。
3つのフォルダに各4枚ずつあり、そのうちの一枚。


 左胸の痛みも相変わらず気になっている。左についても知りたい。
 「うん、調べとくねー。」
 と、パソコンを打ちながら答える。

 「あのー。ラジオ波ってやってますか?」
 ドキドキしながら訊いた。

 「あれは、先進医療って言ってー、」

 くるっとパソコンから向き直り、
 「もう終わっちゃった。それに、あなたの場合は5㎝位長さがあるから、適応外だよ。」

 なんだ、そうか。K病院では5㎜くらいって聞いたけどな。

 (この時はまだ治療についてよく理解出来ていなかった。後に、乳房温存には放射線治療が必須だと分かり、ラジオ波への興味は消えた。放射線で皮膚の状態が悪くなるなら全摘の方がいい、私は。)


 「見せて。」

 にじにじと椅子を寄せてきた。
 服をまくるの?とゼスチャーをすると、うんうん、と頷く。
 キャミソールをブラジャーごと胸の上までめくり上げると、一瞬T先生の目が険しくギラっと光った。
 キャー。

 癌がある右胸の下部に手を添え、指先でトントン。
 「あれ?分からないなぁ。」
 そう言いながら、左胸も同じようにトントン。
 終了。


 「非浸潤癌て、検査の精度が高くなったから見つかるようになった、とも言えますか?」
 「そういう側面もあるだろうね。」
 「もしかしたら、手術しなくても、このまま何もないかもしれないですよね。」

 「…そうだけど……。
そんなの怖くて、誰もやらないよォ!」

 「あああ!そうですよね。」
 非浸潤癌を治療する答えは、この一言で決まりだ。


 やはり、全摘して再建するのがいいということだった。
 希望を聞かれる。

 「無理なのは分かってるけど、なるべく自然に…。」
 「自然って言ってもねぇ…」
と呟き、

 「何となくあなたの希望が見えてきた。じゃね、この次、形成外科へ行って。」
 とパソコンに形成外科宛のオーダーを打ち込み始めた。

 担当医殿、…よろしくお願いいたします、と敬語を使っているのが見える。
 希望の医師名など言っていいものか、先生同士の都合もあるだろうし。気後れして、とても伝えられない。あああ、誰になるんだろう。

 検査結果を踏まえて、手術は7月下旬か8月上旬あたりになるかもしれない、とのこと。乳癌と再建の手術を同時に行う為、手術は長時間になる。スケジュール調整が必要だそうだ。

 「はぁー、ベルトコンベアに乗せられてるみたい。」
 と言うと、T先生は
 「アハハ。」
 と笑った。

 次の診察は、来週のCT検査と形成外科受診を挟んだ2週間後。カンファレンスの上、治療方針が決まるらしい。何か見つかれば追加の検査。

 「今度の時でいいから、細胞診の結果持ってきてくれる?」
 「あ、今持ってます。」
 「え!ある?」
 受付でCD-Rと一緒に渡さなかったヤツだ。箱に納められたプレパラート。
急いで渡すと、こちらに体を向けたままガチガチに梱包された箱からテープをバリバリとむしり取り、
 「検査に送っとくねー」
と机の下にあるボックスのようなものの中にするりと入れた。

 診察の終了間際、
 「いやぁ、まさか癌になってるなんて、全然分からなくて…。」
と言うと、目を丸くし、驚いたような表情で
 「僕でも分からなかったもん。」
と返ってきた。


 診察は20分ほどで終了。

 「今日はこの後、色々検査してもらうからね。」
ということで、昼食も取らず、そのまま検査に回る。
 採血(5本)、採尿、胸部レントゲン、マンモグラフィー、心電図、肺活量、最後に超音波。
 朝食も水分もろくに取っていなかった為、尿が必要量25cc欠けのギリギリだった。
 エコー検査は、案の定、右の患部と脇リンパ周辺を丹念にグリグリ、時間をかけて画像を撮られる。痛い。右胸は生検以降硬くなり、ずっと痛みがあった。
 全て終わって14:00 会計受付、待ち時間の間、自販機で普段は飲まない甘いジュースを買って一気飲み。
 14:20 会計終了、病院を出る。


 夜。痛みがぶり返してきて、不安になる。他に何か見つかったら…。
 非浸潤というところで、再建ばかりに目を向けていられたが、それ以外の不安事がのしかかるとしたら…。メンタル的に持たない。怖い。結果は再来週。

 T先生はまるであっけらかんとしている。
 悩みの縁をフラフラ歩いて落っこちそうになっているのを、ぐいと掴まれ引き上げられるようだった。
 初めて大きな病院を受診することで、極度に緊張していた。帰宅後は一歩踏み出せた安堵感でホッとしつつも、興奮状態が続く。


  そんな中、Dさんからとある集まりのグループ宛にCCメール。
 「Rさま
 その後、体調等いかがですか?
 ふさわしい病院は見つかったかな。
 何か進展ありましたら、連絡ください。
 こんなときにすみませんが…(本題)」

 CCの中の半分の人には癌を知らせていない。
 本題とは全く関係のない、私宛の私信だ。どうしてわざわざCCメールに書くかね。
 誰もそんな情報知りたくねーよ。勝手に類推されたくもない。
 心配してくれるのは有難いが、デリカシーのない態度を取られるのは余計なエネルギーを奪われて本当に面倒臭い。刺さり込んでこないで!

 Dさんからの、
 「(結果を)絶対教えてね」

 「待ってます」
という言葉も負担だった。
 私の症状を詳しく把握して何になるんだ。
 何のアドバイスがある?
 癌になった経験もないのに、何が分かる?

 もう関わってほしくない。
 Z病院に決めたことが分かったら、「何で言ってくれなかったの!友達紹介したのにー。」と割って入られるのは目に見えている。
 曖昧に表現しても気付いてもらえない。失礼にならないよう、何度も何度も書き直し、

 「今は遠くで見守ってもらえると有難いです。」
とメールを送った。

 どんなに不安でも心配でも、納得して決断するのは自分だ。優しさではカバーされない。
 むやみに心配するだけの心を乱される優しさなんて、要らない。


(2018年6月19日)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?