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痔除伝 第五章 CanCamとわたし

翌日。職場に着くと、抜糸後はどうなのかとか、どうしたら肛門周囲膿瘍になるのかなど、どうしたって話題になる。慣れ切った職場ではみんな新しい話題に飢えているから、オペとか、抜糸とか、聴き慣れない疾患とか、そんな話題が刺激的なのだ。

私はそれに対し、お腹下しがちな男性に多いみたいで、なるかどうかは運みたいですよ、とか、抜糸後は生理用ナプキンで対処しろとか言われましたよ、と、なるべく明るく、笑い話に変換して話す。

すると、えー、ナプキンとか、本当にそんなこと言うんですか!?なんてリアクションが返ってくる。そりゃぁ、ビックリするよねぇと、私も思う。

皆こういうゲスな話題が大好きなようで、「指輪して、奥さんのやつを買いに行くフリして行けば?」とか、「彼女と電話してるフリしながら買えば?」とか、「ネット通販なら良くない?」とか、人の気も知らず、勝手に盛り上がっている。

そんななか、
「今、私が買ってきましょうか?」
と、提案してくれた女性がいた。最近異動してきたばかりの、「もえさん(仮名)」だ。

悪いです、大丈夫ですよ、と、遠慮するも、事情は分かるし、私が買ってきますよ!と、やたらグイグイ来る。

正直、ナプキンじゃなくてもトイレットペーパーとか仕込んでおけば良いと思っていたので、その申し出に、気を使うし若干めんどくさいなぁと思いつつ、そこまで強く断るのも悪いので、結局もえさんに押切られる形でお金を渡し、買ってきてもらうことにした。

今思うと、彼女も異動してきたばかりだったので、既存メンバーに早く打ち解けたい、誰かの役に立ちたいという思いがあったのだと思う。

それを思うと、結果的に依頼ができて良かったのかもしれない。早速、休憩後にもえさんが茶色い紙袋をこっそり渡してきてくれた。中身は、「例のブツ」である。

欧米では、渡されたプレゼントの包みをビリビリに破くのが喜びの表現であると知っていたのだが、シャイな私は素早く紙袋を受け取り、カバンの中に隠す。

ふと、中学生の時、クラスの女子がまるでヤクの密売のように生理用ナプキンの受け渡しをしていた事を思い出した。

すれ違いざまに、目線を合わせず、スマートに受け渡して即座にしまう様は、まさにヤクの密売人。生理ナプキンとは、彼女たちにとって、取扱注意の危険物だったのだろう。もえさんの手渡し方は、まさにそれだった。私も、今の受け渡しが誰かに見られていたら、公安にマークされていたかもしれない。

さて、この危険物。見たことはあるが、当然着けたことなどない。ただ、職場の女性にレクチャーを受ける訳にも行かない。ここにきて、女子にしか生理用品の使い方をレクチャーしないという、義務教育の欠陥が浮き彫りになり、私はその犠牲者となったのだ。

カバンの中で受け取った生理用品の袋を開けると、「ランチパック」くらいの大きさの物体が10個ほど入っている。そのうちの1枚を取り出し、即座にポケットに入れた。厚みと感触もランチパックに似ている。私の頭に、剛力彩芽の名曲『友達より大事な人』のメロディが流れた。2021年になっても、私の中ではランチパックといえば、剛力彩芽なのである。

トイレの個室に入り、ズボンとパンツをおろす。ポケットからランチパックを取り出すと、シールを剥がして開けるようになっている。なるほど、こういう感じになってるのか。

外側の包みも剥せるようになっており、それを剥がすとなにやら粘着質になっている。そうか、この粘着でパンツにくっつけるのか!考えたやつ、天才やんけ!

それにしても、ナプキンとはこんなに厚みがあるのか。パンツの内側に貼り付け、履く。……とてつもない異物感と不快感。それと同時に、1つの疑問が生まれる。

(これ、膿の出口に当たってねぇけど、意味あんのかな……)

確信した。あの医者、多分、ナプキン使ったことねぇ。だって、ケツのとこにフィットしねぇんだもの。当たり前である。生理用ナプキンはお尻の穴用じゃないし、そもそも男性用に作られていないのだ。義務教育は、正しかったのである。

生理用ナプキンは、当然月経で排出される血液などをフォローするためのものであるが故に、受け止める部分が身体に対して垂直になる様に作られている。私の場合、膿の出口がアヌスより少し後ろなので、イマイチ角度が決まらない。

また、女性は臍下からおしりにかけて、異物が無く、フラットな作りになっているので、生理用品がピッタリとフィットして気になる部分を覆ってくれるのだろうと思う。

しかし、悲しいかな、男女の身体には差異がある。男女の差異とは、具体的にどういうことかというと、少し難しく、専門的な話になるのだが、おとこのこには、おちんちんが付いているのである。そして、そのお供であるおキャンタマちゃんが、ナプキンのフィットを邪魔しているのだ。

おキャンタマちゃんはその性質上、身体に対して垂直に垂れ下がっている。おキャンタマちゃんは熱に弱く、おキャンキャンの温度が一定以上になると、精子を作る機能が妨げられてしまうのだ。そのため、熱の篭もる体内に収納されるのではなく、身体の外側に垂れ下がっている。

逆に、寒い時などは縮み上がり、体内に収納されるのだが、室内に居る時はそこまで気温が下がることはなく、その殆どを体外でゆったりとすごしている。このおキャンキャンがナプキンのフィットを邪魔し、おしりとナプキンの間に隙間を作っているのだ。

竿はそこまで邪魔にならない。女性は意外に思うかもしれないが、竿の部分は身体に対して垂直に付いている訳では無い。どちらかと言えば、斜め前方に伸びているのである。

例えるならば、お刺身の甘エビの尻尾を持った時をイメージしてほしい。真っ直ぐ下に向けてしっぽを持った時の身の部分ではなく、やや水平気味に持った時の身の形状がそれに近い。

エビの身が下に真っ直ぐ垂れるのではなく、放物線を描くように、根元はやや斜め前方、先に行くうちに下に垂れていくことが分かるだろう。そのため、時折甘エビちゃんが伊勢エビちゃんに進化しても、根本部分が折れること無く、上方に向かってエビ反り出来るのである。

勿論、普段は可愛い甘エビちゃんなので柔軟性があり、パンツを履く時に上向きになるようセットすれば難なく体のラインに添えるので、エビちゃんは一切ナプキンの邪魔をしないのだ。

これは、由々しき事態である。折角買ってもらったナプキンが、キャンキャンのせいであまり意味をなしていない。椅子に座った時も、妙なふわっと感と、キャンキャンのごわつきで、イライラする。

しかも、穴からでた分泌液が体をつたい、CanCamに付着するのがわかる。これがまた、なんとも言えない不快感。なんという事でしょう。ナプキンを装備した事で、意味がないどころか逆に防御力が下がってしまったのです。

あまりの不快感。しかし、脳に埋められたチップが、スーパーコンピュータの富岳と連動している私は、即座に代替案を思いつく。ナプキンを、少し後方に装備すれば良いのではないか。そう思い、別のナプキンを公安に見つからない様に鞄からマッハ2の速さでポケットに入れ、再びトイレに向かう。

個室に入り、パンツを下ろすと、ナプキンのCanCamが当たっていただろう場所に分泌液が付いている。一応、それなりに受け止めはしてくれているようだ。早速新しいナプキンに替えるため、古いナプキンをパンツから剥がす。

「バリバリバリバリ!!!」

と、トイレで聞いたことがないような音が響き渡る。は、恥ずかしい!!どんな力でくっついとんねんと、ナプキンの粘着部を見たところ、パンツの繊維がしっかりと張り付いていた。ナプキンの粘着力、恐るべし。何度か貼っては剥がしを繰り返すことで、このパンツはいつか消滅することだろう。

新しいナプキンをパンツのやや後方部分にセットする。それでもCanCamにふれてしまい、不快感は続く。しかし、お尻に挟むようにセットできたため、多少マシになったのかもしれない。個室から出ようとした私は、新たな壁にぶち当たった事に気付いた。

(この古いナプキン、どこに捨てればいいんだ?)

そうなのである。男性トイレに、サニタリーボックス(汚物入れ)はない。しかし、トイレに流したら、100%詰まりそうな質感。逃げ場のない迷宮(ラビリンス)に追い詰められ、一筋の涙が頬を伝う。

ナプキンで涙を拭き取り、そのナプキンを内側にたたみ込んでポッケにダンク。うさぎさんのように真っ赤な目をしたまま自席に戻ったところ、私の表情を見て何かを悟ったもえさんは、女子トイレに向かい、これまたヤクの売人の様に黒いビニール袋を渡してくれた。私は、人の温かさを知った。

翌日、もえさんが、

「その後どうですか?足りなくなりそうなら言ってくださいね」

と声をかけてくれた。こんなにごわつくものだと思わず、使用感などにも戸惑っていると冗談まじりに答えた。すると、もえさんは、

「そうなんですね!どれくらいの量が出るか分からなかったから、厚いやつを買っちゃったんです!ごめんなさい!もっと薄いの買ってきますね!」

と言い、例の如くこっそりと受け渡してくれた。

早速、トイレで新しいナプキンを確認する。薄い!!すごく薄い!!前回のものに比べると、まるでトーストの上に乗せるとろけるチーズのようだ。そういえば、CMなどで超極薄スリム!みたいな謳い文句を聞いたことがあった。技術の進歩とは、恐ろしいものである。

極薄タイプのナプキンを装備する。不快感が軽減!!しかも、厚さが減ったためか、多少おしりにフィット感が得られるようになった。山折りにしてお尻に挟み込む事で、かなりのフィット感がある。しかし、それでもCanCamが私の邪魔をする。エビちゃんは、一切問題がない。さすがに、優秀である。全ての問題はCanCamなのだ。

思えば、CanCamなどあるから、男は間違いを起こすのかもしれない。男性ホルモンの殆どがCanCamから製造されており、CanCam=暴力性や、性欲の象徴と言える。

つまり、CanCamさえなければ、我々はもっと穏やかに生きられるのかもしれない。老人のように、ただ青空を眺めて過ごしたり、縁側で口を開けながら生きているのか死んでいるのか分からない状態で、ほのぼの生きていられたのだろう。平和とは、Can無き世でこそ造られるのだ。

男は、一時の性欲で選択を間違えてしまうことがある。性欲がなくなることで、世の男性の選択ミスや失敗は2割くらい減りそうだ。CanCamとは、それら全ての諸悪の根源なのだ。

男子にとって、エビちゃんさえ有ればいいのである。子供が欲しい時だけ、CanCamをアタッチメントのように付けられるようにすればいいのだ。マキタの電気工具のバッテリの様に、不要な時にはカートリッジにセットして、充電しておけばいい。

CanCamなど要らぬ。評価されるべきは、エビちゃんなのである。もはや、エビちゃんにCanCamは不要なのである。

私がCanCamの無能さに嫌気がさし、カバンにナプキンを忍ばせながら、職質を受けないようにビクビクする生活に慣れ始め、そろそろCanCamを切り落とそうか検討段階に入ったころ、傷跡が完全に塞がったのか、分泌液は徐々にでなくなった。

CanCamの不快感から解放され、あんなに邪魔だったCanCamを改めて手に取ってようく見てみると、こいつはこいつでなかなか可愛げのあるやつだと気付いた。愛とは、そのようなものである。

ナプキン生活が終わり、数ヶ月経った頃、もえさんはヤクの密売人という仕事が無くなり、自分を見つめ直すきっかけになったのか、仕事を辞めて地元に帰った。私は、もえさんが帰郷した南西に向かい、CanCamを撫でながら深くお辞儀をした。

つづく。

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