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第15回 『オデッセイア』から『ユリシーズ』へ。その1

 叙事詩『オデッセイア』は24の歌から成り立っています。対して『ユリシーズ』は18の逸話から成り立っています。

 ジェムズ・ジョイス作『ユリシーズ』は、ホメロスの『オデッセイア』に対応した作りになっている、というのは何度もお伝えしていると思いますが、では、古代ギリシャの舞台をそのまま20世紀初頭のダブリンに置き換えただけ、ではもちろんありません。それどころか、夥しいくらいの小ネタの数々(というか意味不明な小ネタの数々)、遊び心たっぷりな文体(というか意味不明な文体)、意味深なセリフ(というか意味不明なセリフ)、徹底的に計算された構成(解説書で初めて気づく)などなど、出版から100年経っても今だ世界中の研究者を悩ます、文学史上でも、唯一無二とも言える独創的な作品です(…まだ読了してないくせに)。

 と前置きしながら、私的には、この両作品、どこがどう対応しているのか? が、まずは気になるところ…。

 今私の目の前には、ホメロス作松平千秋訳『オデッセイア』(上)、阿刀田高著『ホメロスを楽しむために』、川口喬一著『ユリシーズ演義』、結城英雄著『ユリシーズの謎を歩く』、ケヴィン・バーニンガム著小林玲子訳『ユリシーズを燃やせ』そして我らが(?)ジェムズ・ジョイス作丸谷才一・永川玲二・高松雄一訳『ユリシーズ』1巻があります。

 これらをあーだこーだ屈指して、『ユリシーズ』を楽しく、読み砕いていければと思います。まあのんびりと…。でも間違いには気をつけるつもりです。

  

『オデッセイア』第1歌、2歌


はしゃぎすぎたせいで神の怒りを買うオデ。

 叙事詩『オデッセイア』(今まで気づきませんでした)の始まりは、前作『イーリアス』の終わりから9年後になります。10年続いたトロイヤ戦争が終わって、やれやれから9年後です。ですがギリシャ軍のそこそこ偉い人オデッセウスとその部下たちは未だ故郷イタケーに帰れずにいます。今彼らはオギュギア島というところで足止めされているのです。なぜかというと、話は数年前、船での帰宅途中、偶然立ち寄ったある島で、そこにあった食い物や畑を馬鹿みたいに荒らしたオデ一行は、そこの主、一つ目巨人キュクロプスに見つかり襲われそうになって、なんだかんだで、キュクロプスの一つしかない目に杭を打ち込みやっつけたのですが…。


気を良くして自ら名を名乗ったせいで身元がバレる。

 …てことで、罰として海神ポセイドンに意地悪されているというわけです。

 自業自得です。元々人ん家のものを黙って食って荒らして、そりゃそうなります。
 話はそれますが、この物語『オデッセイア』は、貴種流離譚と言われる物語構成に則った物の中でも、最古のものといわれています。物語の主人公たるものは、最初はどこか欠落してなきゃならない。じゃなきゃ読者が共感する成長が描けないというのがあるのです。

 所詮人間界の英雄(※この時代は戦争で秀でるだけで英雄です)オデなんか、神のポセイドンには逆らえないのです。トロイア戦争は10年続きましたので、そこの9年足して19年も故郷に帰れないでいる。その間一人息子のテレマコスはもう20ぐらいまで成長している。一番成長が楽しみな頃に見れないでいる。そして、妻のペネロペイヤ。めっちゃ美人なオデ自慢の妻…。


「まさか俺のいない間に!」


「いやいやまさかまさか、俺の妻に限ってそれは…、いや流石に19年の留守は⁈  クソォー、考えれば考えるほど狂おしい!」

…。

「ウギャー!」


「ウォー! 狂おしい!」

  …となっています。


 …となっています、と言いつつ、これは厳密に言ってこの物語の最初のシーンというわけではなく、大神ゼウスの口から語られる、ただの説明です。叙事詩『オデュッセイア』の開幕は神々による会議シーンから始まります。

 神々たちは、オデをどうするか話し合っています。

「そろそろ許してやろうか」「まあな」って感じです。

そして「許そう」となり、さあ、物語はようやくオデのお出ましか、となるところですが、そうなりません。

 次のシークエンスで語られるのは、オデの故郷イタケーの現在です。登場するのはオデの一人息子のテレマコス推定年齢20です。それとオデの例の美人妻ペネロペイア。老メントルなどもいる。

 オデ家はイタケーの王家です。家にはそこらじゅうに金銀財宝(全部戦利品。まるでジャイアン。でも英雄)やら美味しい食べ物が備蓄してある。そんな中、王であるオデは長い間留守。噂ではもう死んでるとかなんとか。オデの屋敷には連日、近所の馬鹿兄ちゃんや、アホ親父、クソ荒くれ者どもが訪問。王がいないことをいいことに備蓄を荒らし連日パーティー。飲めや歌えで王家の屋敷はあっという間にゴミ屋敷。おまけに美人妻にはウヘウヘ声で言いよる始末。テレマコス王子はその地獄をじっと耐えている。

「クソォー、父さんさえ居てくれたらこのクソ野郎どもを一網打尽に…」


21世紀的美徳とは少しづれてるかも。

 そんなある日。客人が訪問。

そして、「オデッセウスは生きてます」「本当ですか?」「ええ本当です」「神に誓って?」「もちろん神に誓って。なにせ、私がその神ですから、オホホホ」

 それは客人に化けた女神アテネであった(以前、モスト・ビューティフル・イン・ザ・ゴッド・ワールド大会に負けて、腹いせにトロイアとギリシャの戦争を引き起こし、死人をたくさん出したクソ神)。

「やっぱりパパは生きてる!」

 突然テンション・マックスになったテレくん。そのままじっと帰りを待つことができず、すかさず船を用意…、

「あのガキ何してんだ?」「今度は船旅だと」「ついに逃げ出すのか、へへへ」と、嘲笑う荒くれどもを受け流し…、

「笑ってられるのも今のうちだ」

世話係の老メントルや家来を数名引き連れ、父探しの旅に出たのでした。


そうはいっても部下はいる。


と、ここまでが第2歌。

 そしてついに3歌から、オデの登場か? と思いきや、まだ出てきません。引き続きテレくんの冒険譚が語られます。主人公のはずのオデッセウスの初登場はなんと第5歌までお預けです。そしてその後は、オデさん話とテレくん話が交互に語られるという意外とトリッキーな構成です。

 なるほど、ここでついに『ユリシーズ』との対応関係が少しづつ見えてきました。

 私は数年前に『ユリシーズ』の第9章まで読んでいます(そして降参しました)。『ユリシーズ』の冒頭は、テレマコス的役割を担うスティーブン・ディダラスくんが登場します。そして彼のぐうたら生活が1章、2章、3章と続いた後(この小説内の時間はある日の午前8時に始まり、その日の深夜0時ごろ終わります)、第4章でやっとオデッセウス的役割のレオポルド・ブルームが登場するのです。

 ※失礼しました。お国の為、戦争に行く人は英雄です。…たとえ侵略国側でも。

『ユリシーズ』第1章 サブ・タイトル、テレマコス


ダブリン。1904年6月16日午前8時。


 『ユリシーズ』第1章の舞台はマーテロ塔です。この塔は実際にある塔で、ダブリン湾沿いにあります。かつてナポレオン軍を迎え撃つ要塞として建造されました。

今もあります。現在はジェイムス・ジョイス博物館となっています。

 物語が始まってすぐに三人の若者が登場します。作者ジェイムズ・ジョイスの分身であり、ダブリンのテレマコスこと我らがスティーブン・ディダラスくん、そしてマラカイ・マリガン、そしてイギリスからやってきた支配者気取りの医学生ヘインズ(当時アイルランドはイギリスの植民地)。彼らはマーテロ塔に住んでいます。昨夜ここで寝て、朝目覚めて、塔の屋上で呑気に朝日なんか見ています。ここはマラカイ・マリガンの住居です。今は使われていない要塞だとしても、彼らがなんでわざわざこんなケッタイなところに住んでいるのか、謎です。
でもこれはジェイムズ・ジョイスの実体験がもとにあります。

 あそうそう、その前にこの1904年6月16日以前の経緯からご説明しておきましょう。『ユリ』の前作『若い芸術家の肖像』のラストで、信仰を捨てたスティーブンは単身パリに行きます。そのはずなのですが、『ユリ〜』の冒頭では、彼はダブリンにいます。着いたそうそう”ハハキトク”の電報を受け取り、すぐにダブリンに戻ってきたらしいのです(具体的には1903年4月に出発。1年後帰国)これはジョイスの身に起きた出来事と寸分違わず一緒です。そして劇中のスティーブンの設定通り、この直後ジョイスの母は亡くなりました。その後自宅に居づらくなったジョイスは、友人のオリバー・ゴガディが、英国陸軍省から年8ポンド(12ポンド説あり)で借りて住んでいた、このマーテロ塔とかいう塔に居候したらしいのです。

「だからなんで塔なんかに住んでんねん⁉︎」

 さー知りません。きっとみんなと違うことがしてみたかったのでしょう。

 でも事実らしいのでしょうがない。で、このゴガディという男はやはり劇中のマリガンのモデルらしいので、じゃあそのまんまジョイスの自伝やん、ってことになります。

 小説に戻ります。マリガンという男は名家出身で医大生の詩人でもあるそうですが、その割りにはおしゃべりで品がなく悪ふざけが好きなやつ。冒頭から髭剃り用のクリーム泡を使ってキリスト教のミサをふざけた調子で演じて見せます。本当のミサでは葡萄酒と聖杯を用意するのですが、マリガンは、本来キリストの血を見立てる葡萄酒を髭剃りクリームに、聖杯をそのクリームを注いだ器に見立てて行っています。信仰を舐めきった遊びです。


前半スティーブンは喪失と罪悪に苛まれている。

 その後、マリガンが口笛を一回吹きます。するとダブリン湾に浮かぶ郵便船が汽笛を2度鳴らします。まるでマリガンの口笛に呼応するかのように。本物のミサでは、ラスト完了を告げる鐘を3回鳴らすそうですが、抜け目ないマリガンは、郵便船が汽笛を鳴らすタイミングを知ってて口笛を吹いたのでしょう。
 実際1904年当時、ダブリン湾を出港する郵便船の初車時刻は毎朝8時15分だったそう。だから劇中ともちゃんとあっている。ジョイスは『ユリ』を書く際、1904年6月16日の丸1日の天気の具合、建物の位置など、ちゃんと自身の記憶通りか後調べして、照合させたらしいので、この辺も抜かりはなかったのでしょう。やはり真面目な人なんです。 

そしてマリガンは船に向かって「ありがとう、相棒」と呟きます。

このシーン、とても映画的です。この小説が出版されたのは1922年ですから、世に映画が席巻し始めたばかりの頃。作者ジョイスは、映画を意識してこのシーンを書いたのかどうかは分かりません。

 あそうそう、この郵便船は何気に重要アイテムです。何せ1日の物語ですから。忘れた頃に突然現れたりするんです。

 続いて。
 マリガンはスティーブの名前を揶揄います。ディダラス。そんな苗字は外国にもないらしい。ギリシャ神話に出てくるダイダロスを英語読みしたものだそうです。ダイダロスは頭のいい発明家。頭が良すぎて恐れた王に、息子イカロスと共に幽閉されてしまいました。彼らは蝋で翼を作りそこから脱出しました。息子イカロスは、脱出の途中、太陽に近づきすぎたため、蝋の翼が溶け出し墜落死する。この話日本でも有名ですね。

 ジョイスはなぜ、わざわざ英語圏にないこの名をスティーブンの苗字にしたのか? 前作『若い〜』での、信仰とダブリンからの脱出の象徴として、というのが挙げられます。

 次、スティーブンがようやくしゃべります。

「ヘインズはいつまでここにいるの? 昨夜殺されるかと思った」

 これも恐ろしいことに事実がもとにあります。ジョイスがマーテロ塔に居候を始めると、やはりこれも劇中と全く同じで、実際ももう一人同居人がいました。医学生ヘインズのモデルで、やはり医学生のエス・シー・トレンチという男です。ある晩悪夢にうなされピストルを発砲したそうです。
「命がいくつあっても足りねぇや」
 ビビったジョイスは次の日塔を出ました。


 …疲れたんで続く。



↓良いことあるかも↓




 あそうそう、言い忘れてましたが、叙事詩『オデュッセイア』の主人公オデュッセウスに対応しているのが、『ユリシーズ』の主人公、この後4章から登場するレオポルド・ブルームです。そしてオデュッセウスの息子テレマコスに対応しているのがスティーブン・ディダラスです。ですが、ブルームとディダラスは親子ではありません。うっすら顔見知りの程度の他人です。ただブルームは数年前、一人息子と死別している悲しい過去があります…。

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