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○○構文を使いたくない

 話題なので普通に『シン・ウルトラマン』を観る。

ウルトラマンシリーズ→そこまで思い入れがあるわけではない。
エヴァンゲリオン→そんなに好きではない。ロボットアニメやセカイ系があまり刺さらない。
シン・ゴジラ→面白かった。アメノハバキリ第1小隊が全滅したところで「勇敢に立ち向かっていった人達がみんな死んだ…」と泣いた。

 …みたいなスタンスで観る。

 そら普通に面白いですわ。

「前身に『ウルトラQ』がある」とか「予算を抑えるために一度使った怪獣の着ぐるみをリメイクして別の怪獣にした」とか「特殊性癖に刺さるエピソードが有名」とかマグカップの柄のあいつとかバカみたいな数値とか雑学的知識やサブカル的教養があることで「ああ、ここはそういう拾い方か」と観れた。そういう部分が追えないほどあったからよくわからない部分があっても「多分ちゃんと意味があるんだろう」と納得できる。

 エヴァはあまり好きになれないのはわからないことが多過ぎるのである。人から「お前エヴァ好きそうだな」とか言われるのだが全然なのである。好きな人は好きなのはわかるし、ちゃんと紐解いて観れば納得できるのかもしれないが、どうも自分が求めるものと違う。庵野秀明監督自身がかつてNHK『トップランナー』で「エヴァは衒学的」と言ったというのを聞いたのでその言葉の真意はわからないが「それなら自分向きではないかな」と感じてしまったのが大きいと思う。監督の頭の中にしか答えがないような気がして。
『シン・ゴジラ』『シン・ウルトラマン』は大雑把な言い方をすると最高の技術や人材を使って深く緻密な解釈と作品愛によって生み出されたいい意味でストレートな公式二次創作だとも思える。だから自分にも刺さったのかもしれない。

 面白さの一因になっているのは斎藤工山本耕史だろう。高次元過ぎて感情を理解していないが曲がりなりにも理解しようとしている存在の演技として理想形だ。
 山本耕史演じるメフィラス。根本的に人間とわかり合えそうにないが、可能な限り相手を尊重する柔和で友好的な態度、でも何か歪だと思わせる。性格付けを強めているのが「○○、私の好きな言葉です」という口癖。肯定で相手の共感を促す理性的な感情を込めてはいるがわざわざ口にすることに違和感がある。
 例えばカンフー映画のブルース・リーやジャッキー・チェンのアクションやディズニープリンセスのミュージカルシーンみたいに魅力的、印象的な演技というものはマネしたくなる。ある意味では『シン・ゴジラ』の石原さとみの「ガッズィーラ」も印象的だし。そのマネしやすい要素としてメフィラス構文は機能している。性質的に「○○、私の好きな××です」という定型文は実際に言うより字面の方がわかりやすいし、狙い通りなのかもしれないがネット上でバズる。
 公式も舞台挨拶で登壇した出演者にフリップ芸的にやらせる。マーケティング的には大成功だ。

 でも私はあまり使いたくない。メフィラス構文に限らずどうもネットスラング、ネットミームの定型文というのが苦手なのだ。ネット上でも匿名、半匿名でも可能なら使いたくはない。「○○ンゴ」とか「草不可避」とか「○○ですね、わかります」とか「ここすき」とか「わかりみが深い」とか「○○しか勝たん」とか「オレでなきゃ見逃しちゃうね」とか「君のような勘のいいガキは嫌いだよ」とか。ジャンルや界隈、世代を問わず。
 定型文というのは口当たりはいいかもしれない。それによる同じ価値観の者同士の共通言語としてのコミュニケーションの在り方もある。でもそれに頼ってしまうと自分の言葉がなくなってしまうのではないかと思えてしまう。自分の意見や感情を容易い言葉に当てはめるのは可能ならば避けたい。平坦な文章や言葉を使いたい。

 メフィラス構文に関してTwitterトレンドに上がった時に一部のファンは念を押した。劇中においてメフィラスが否定的なことを言う際に「私の嫌いな言葉です」とは言っておらず「私の苦手な言葉です」と言っている、と。
 メフィラス構文を何か対象を安易に否定することに使われることを危惧したんじゃないかと思う。苦手も嫌いも個人の感情だがかたや配慮して価値観は容認する、かたや一切拒絶するスタンスだ。好きなものを変質させて悪用されたくはない。自分も嫌いだ。

 弁も立たないし拙文しか書けなくてもちゃんと自分で考えて言葉を紡ぎたいなあと。


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