見出し画像

「ニャオハ立つな」という危うさ

 ポケモンはずっと好きである。愛を語れるかというともっと好きな人はいるだろうし正直微妙だが、人並みには好きだし愛している。

 『ポケモンGO』は続けているが、コンシューマーゲームの本編は離れて久しい。やれば楽しめるだろうけど、個体値とか努力値の厳選とかを意識してしまった時、悪いところで完璧主義者な質が出てしまう自分としてはゲームが作業に変わってしまい、時間もモチベーションを浪費してしまいライトなゲームじゃないと楽しめなくなってしまったのもある。ポケモンカードとかも然り。
 それでも新ポケモンとかのトピックを追うのは楽しいので情報はチェックしている。毎度毎度新作が出る度に「最近のポケモンはポケモンっぽくない」なんて言われようとも「最近の若者はなっていない」「最近のテレビはつまらない」というとりあえず言っておけばマウントが取れる擦られ切った言説並みにナンセンスで、種類が1000を超えようともセンス・オブ・ワンダーを感じさせてくれる。

 アニメもサトシとピカチュウの旅が終局を迎えようとしているので久方ぶりにチェックしている。

 ただトレンドを追うと、やっぱり自分はネットミーム、ネットのオモシロとかイジリ笑いが苦手で、色々余計なことを思索してしまう。

「ニャオハ立つな」

 一年前からネットミームとして浸透しているワード。
 それより前のシリーズの最初に選べる御三家、ポカブとかニャビーとかが進化して最終形態になったら可愛いマスコット的な獣からエンブオーとかガオガエンのようないかつい二足歩行の獣人になってガッカリした経験から言われるようになったネタ。
 結果的にニャオハは進化してシュッとした二足歩行でヨーヨーを武器に戦うニャローテになり、最終的に仮面舞踏会+マジシャン風のスタイリッシュで中性的な猫の獣人、言い切ってしまうとケモナー受けしそうな、というか受けたマスカーニャになる。プレイヤー、ネット民的には概ね好意的な評価だ。

 でもなあ、もしニャオハが進化して立ってしまっていたら、あるいは立たずに四足歩行のままだけど、納得できないキャラクターデザインになっていたらどうだったのだろう。

 10年近く前のアニメポケモンの『ポケットモンスター ベストウィッシュ』第129話『デコロラ諸島の海賊王!』。ネットでも話題になったエピソードだ。
 ポケモントレーナーから理不尽に捨てられたポケモン達が海賊行為を働いてトラブルを起こしているという話。しかも捨てられた理由というのが進化しなくて強くないor進化して見た目が気に食わなくなったからで、そのポケモン達はアリゲイツ、マリルリ、オクタン、コアルヒーと進化前後と比較してデザインが微妙とメタ的に揶揄されがちなポケモンだ。コアルヒーのモチーフは『みにくいアヒルの子』だし。最終的に海賊団は更生して海難救助隊になるという結末だが、あまり納得がいかない。ポケモンを捨てたトレーナーは回想でしか登場しないし、それを聞いたサトシ達やロケット団のニャースは同情するもサトシの手持ちポケモン達は「もっといい出会いがある」「見返してやれ」的なことで反論して、なんやかんやあって間に入ってきたロケット団をこらしめて「ああいう風になるな」という流れ。根本的な解決になっていなくて綺麗事にも見える。

 最近のポケモン、というかフィクション全般において悪の描き方が難しくなっていると思う。
 初代のロケット団はじめ、それまでのゲームの物語に登場する悪の組織は反社会的勢力や秘密結社で世界征服とか歪んだ思想犯とかわかりやすい行動原理だったが、2016年の第7世代以降のスカル団、エール団、スター団になるとただの不良集団、しかも社会や体制から落ちこぼれたり居場所を失った若者達という印象で言い換えれば作中の主人公、ひいてはプレイヤー自身もそのような立場になる可能性を秘めている。話の流れで真の黒幕がいる展開にもなるが、その黒幕にも仕方がない事情があって…ということが多い。
 ポケモンに限らず、例えばディズニー・ピクサーの長編アニメに出てくるディズニーヴィランも'00年代後半から'10年代は「いい人だと思ったら実は…」とか「かつては主人公と似たような境遇だった」みたいなパターンがかなり多い。悪には悪なりの事情や同情の余地がある、あるいは主人公の影(シャドウ)で轍を作る者という印象が強い。
 キッズ・ファミリー向け、それに国際的コンテンツになるとこれからの時代、あらゆる面での多様性について考えなければならないし、そうなると多様性の前では悪の定義が難しくなる。

 かつての虫取り少年だった田尻智増田順一から始まったマインドで生物多様性を意識したキャラクターデザインをしている。ニャオハ・ホゲータ・クワッスも同じネコ・ワニ・アヒルをモチーフにしたポケモンは複数いても全く違う印象だ。それに亜種に相当するリージョンフォーム、異次元からの侵略的外来種の側面が強いウルトラビースト、ゲーム上の概念である"しんか"ではなく生物的な"進化"と虚構の想像を感じさせるパラドックスポケモン
 生物多様性だけじゃない。2010年の第5世代、コンテンツが10年を超えて以降、本格的に世界を視野に入れた展開に入ったこともあって、ゲーム上の舞台のモチーフが日本から海外に移り、ライバルや博士、ジムリーダーといった主要な登場人物は老若男女、社会的な立場から職業、肌の色もそれぞれだし、それが当たり前で現実における差別なんてない。『スカーレット・バイオレット』では男も女もLGBTを意識させるキャラクターが登場し、舞台は学校・アカデミーでありながら学生は年齢不問で10代だけでなく中年、高齢者までいる。そもそもスカーレットとバイオレットが光のスペクトル、の両端の色で多様性の象徴だ。
 余談だけど私は高校の頃、制服もなくシステムが大学に近い単位制、定時制高校に通っていたので色んな人がいた。中学から現役で入る者もいれば中退からの復学する者もいて、金髪に染めたヤンキーもいればカードゲームばっかりやっているオタクもいて、20代もいれば生涯学習で還暦も通っていて、車椅子の生徒もいて、今考えると滅茶苦茶自由で多様性のある環境だった。
 完全な予想だけど、ポケモン次回作、早ければDLCで車椅子とかに座った身体障碍者が登場人物として出てくる気がする。ライドポケモンとかもいるし。自然な流れじゃないかなあ。

 話を戻して「ニャオハ立つな」、多くのネット民が面白がるが、私はそれに乗れない。それって多様性を真っ向から否定するように感じてしまうんです。
 ニャオハにしても前述のアニメの海賊団にしても愛すべき対象が自分の望む姿にならない、成長しないことに失望するって現実問題、子供に生き方を強要するのにも似た行為に思えてしまう。適正や興味があるなしにも関わらず、進学校のために英才教育で猛勉強させたり、スポーツや芸能の方面に行かせるようにしたり。そんな子供の行く末は本当にポケモンマスターになる主人公のような存在なのだろうか? 何か踏み外したら、掛け違えたらスカル団、エール団、スター団、あるいはもっと救いようのない悪になってしまうのではないか?
 理屈の過剰な飛躍なのかもしれないが、そんな延長に思えてしまう。だから杞憂だとしても危うさを見出してしまう。それがこのネットミームから自分が不快さを受けてしまう正体なのである。

 既にポケモンは四半世紀を超えて半世紀、百年続く勢いのコンテンツになりつつある。実際いつまで続くか、作中のポケモンがどこまで増えるかわからない。
 どんな変遷を辿っていくのか、どんな多様性を内包した世界が作られるのか、続く限り遠巻きにでも見ていたい。新しいポケモンが立とうが立つまいが。

この記事が参加している募集

ポケモンへの愛を語る

多様性を考える

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?