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繋がりたかないんだ

 似たようなことを何度も言っているような気がするが、やっぱりSNSに対して苦手意識を持っているし、いまだにどの様に運用するのが自分にとって適切なのかがわからない。それでも何かしら活動を示す手段だとか情報インフラとかとりあえずは周りに生きている報告をするために続けている。

 毎日タイムラインにはバズった投稿が流れてくる。気が向いたら流し見するがリツイートやいいねしたりしない。取り分けフォローもしていないアカウントに対しては。何て言うか、たかが個人の意見に気安く迎合したくないという私のある種の傲慢さからだろう。

 基本的にネットで話題になる個人アカウント発信の漫画に対してあまり興味を持たない。100ワニだのステマ案件だので痛い目を見た人もいるだろうに。
 そんな中自分がかつてリツイートするほどには心を打った唯一の漫画がこれだ。

 作者は後に赤塚賞を受賞して評価されるのだがそれ以前のツイート。自分の知り合いの漫画家がリツイートしていたのだが、その人も多分思うところがあったのだろう。
 創作にしても趣味にしても、どれだけ何かしらに心血を注いでいようとも、そんなことを気に掛けない人がほとんどだし、無関心を通り越して無配慮な悪意をぶつける人もいる。生きている限り、一定数存在するそんな輩と何かしら関わりを持っていかなければならない。関わりを持たないように努力しても誰かを仲介して目に入ったりしてしまう。何かしら信頼している相手に対して「そんな奴と友達でいるなよ」とか「そんなことに同意するなよ」「いいね、リツイートするなよ」と思うことは多々ある。それで信頼が揺らいでしまうこともあり得る。

 スモール・ワールド現象、あるいは六次の隔たりという概念がある。いわゆる知り合いの知り合いを仲介すれば6人程度で9割方は誰にでも繋がることができるというあれである。ネットが発達してその気になれば憧れの人物とも身近に接することも出来て、よりそれが顕著になったが、裏を返せば自分と交わるべきでない、交わりたくない人間とも容易に繋がりが発生してしまうのである。

「友達100人できるかな?」「SNSで世界中の人と友達になろう」等と言われてもそんな言葉には昔から懐疑的な目を持ってしまっている。私自身友達を作りたがらない、孤高ぶったコミュ障なのもあるが友達ってそんな風に見境なく作れるものなのか? 互いに不可侵な部分は触れないようにしてそれぞれが心地よく共存することはできるけど、万人に対してわざわざ友達だとかフォローだとかという強い結び付けを作るというのには疑問と抵抗が拭えない。

「#絵師さんと繋がりたい」とか「#映画好きと繋がりたい」とかのハッシュタグがよくあるが本当にそんなざっくばらんな括りで繋がりを作っていいのか?
 例えば何かしらの漫画が好きと言ってもストーリーが好きな人もいれば、絵柄が好きな人、個別のキャラクターが好きと言う人もいる。同じキャラクターが好きでもビジュアルが好きな人もいれば、性格や人物背景が好きな人もいる。ある人はアニメ版も好きだが、ある人は原作以外は認めない。同じ作者の別作品も抑えている人もいれば、他は全く知らない、中には嫌いだと言う人もいる。それなのに単純な理由で繋がれる、わかり合えると思ってしまうのは浅はかなんじゃないか?

 心のどこかでは可能ならば山にでも籠って誰とも繋がりを持たず自給自足的な仙人みたいな生き方をしたいと思っているのかもしれない。しかしそれは無理だ、あらゆる面で。
 何かと繋がらなきゃならないんだなあ。

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