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4℃がメルカリに出される季節がきましたね。クリスマスプレゼントに迷う民へ

ここ数年Xで繰り広げられる4℃論争。論争のきっかけのツイートからは三年目を迎える今年。プレゼントをめぐる香ばしい論争が周辺でも起こり始めている。

この終わらない論争について、『世界は贈与でできている』というベストオブ2023書籍に書かれている理論を本に、私なりの解説をしたい。

この本では、「贈与=お金で買うことのできないものとその移動」という定義のもと、資本主義の隙間に存在する「贈与」の存在について語られている。私が今勉強している「行動経済学」で語られる人間の非合理性を「贈与」という形に置き換えて話を進められていて、NFTプロジェクト・エンタメ・マーケティングに関わる人はこの本をぜひ読んでほしい。

4℃論争とは

4℃とは、日本初のジュエリーブランド。ティファニーやカルティエといった伝統のある外資ブランドに比較すると若者でも手が届きやすい価格帯なのに品質が高いことで知られている。この論争の始まりは「カナル4℃」という4℃の「ディフュージョンライン(価格帯が低いライン)」をプレゼントされたことを30代の女性がXに投稿したことから始まった。「30代にプレゼントするものじゃないだろ」vs「4℃だっていいよ」「プレゼントにケチつけるな」という終わりの来ない論争である。この論争の影響もあってか4℃は「4℃」と名前を出さないブランドラインを出すところまで追い込まれている。

この論争がなぜ起きたのか


前提品質はいいし、デザインも「それ4℃でしょ、ださ!!」ってなるものではないと認識している。外資ブランドと比較すると手の出しやすい価格帯ではあるものの、安いものではないし、この論争でブランドイメージを毀損していることを除けば、プレゼントとして悪いものでは決してない。「今」4℃をプレゼントされるとしたら「Xの論争なんて知らない別世界で生きている素敵な人だな」とも思えるかもしれない。

学生時代では4℃(カナル4℃含む)のお揃いのブレスレットをクリスマスに買っているカップルや、誕生日に4℃をもらって素直に喜んでいる友達がたくさんいた。そういう意味ではある種「これをあげときゃハズさないでしょ」という定番プレゼントのポジションに当時からいたのかもしれない。ちなみに私は学生時代ヒモ系男子とばかり付き合っていたためまともにプレゼントを貰えていない。この論争の土壌にすら上がれていない。おこがましいのは理解している。

学生の頃の記憶を辿ると、アラサー以上で4℃をもらうと「学生かよ!」っていうリアクションになることも理解はできる。バイトで精一杯な学生からのプレゼントと、それなりに数年社会人をしている相手からのプレゼントというそもそもフィールドが変わってしまうからだ。また、「これあげとけばハズさないでしょ」ブランドになってしまうと、「対私」へのプレゼントではなく「対一般的な女性」としてのプレゼントと認識してしまうのはあると思う。これは知名度の高いブランド全てに当てはまりうる。

書籍『世界は贈与でできている』で語られる「言語ゲーム」とは


私たちは「窓」という単語をどうやって覚えただろうか。
透明のガラス、外界と部屋を遮断するもの、、、色々後付けの説明はできるが、周りの大人との会話の中で「これは窓というのか」と自然に記憶してきたのだと思う。窓がついた建造物のない国の人たちは「窓」と言われると別のものを想像するか、何かわからないかもしれない。私たちは外界と交流しながらその世界の言語を覚えて使ってきている。

書籍の中で出てきた「16時の徘徊」というエピソードがある。

認知症になってしまった母親が毎日16時に決まって徘徊をしてしまうことに悩んでいる男性がいた。行方不明になることは度々で、警察にお世話になることもあり、男性はいつも母親を叱っていたという。

男性は悩んだ末、ベテランの介護士に相談をする。ベテラン介護士は「16時」に関連することを周辺に調査し始める。そこで見えてきたのは16時は息子(男性)の幼稚園のお迎えに行っていた時間だったことがわかった。

叱っても頑なに帰ろうとしなかった母親に「息子さんは幼稚園のお泊まり会だから今日は帰ってこないですよ」とお泊まり会の案内まで偽造して伝えたところ、「そうだったかね?」とすんなり家に帰った。

この母親は「まだ息子な幼稚園生な時代」という言語ゲームを一人で生きていたのだ。男性は、毎日こうやって母親がお迎えに来てくれていたのだという「贈与」を今認識することになる。

他者の非合理な言動の中には、「贈与」の差出人としての姿が隠されていて、私たちはその非合理性を通して他者からの贈与に気づくことができる。

私たちは他者と関わりながら、その他者との「言語ゲーム」を構築していく。他者の非合理な振る舞いには他者が築いてきた「言語ゲーム」があり、そこに気づくことで「贈与」を受け取ることができる。受け取り先のいない贈与(誤配された贈与)を理解するために勉強をする。

「言語ゲーム」という前提から考える4℃論争


プレゼントについての贈与論はまた別で語るとして、4℃論争には二つの言語ゲームが存在すると思う。

一つ目は、「学生時代の定番でしょ」という言語ゲーム。
これは私の周りのように学生時代によく贈られるものだよねという言語ゲームを構築していた人たちにあるものだと思う。

二つ目は、「Xでこれだけ論争になっているでしょ」という言語ゲーム。
先に述べたようにXで度々論争になっているものをどうして今上げるんだという主張。Xを見てなかったり、ネットでの炎上などと無縁のところで生きている人からしたら知ったこっちゃないよという言語ゲームが存在する。

これを踏まえると、プレゼントを他者に渡すという行為は互いの言語ゲームの理解の上できるかなりハイレベルなものに感じる。ましてやサプライズなんて一世一代のハイリスクに感じる。だからこそ価値のあるものだとも思う。

相手の生きる言語ゲームを理解するためには、「相手の非合理性」を認識し、理解できるようにする必要がある。ここには偏愛・こだわりと言われるものも含むと思う。

プレゼントを受け取る時には、そのモノがモノじゃなくなる。相手の言語ゲームも一緒に受け取ることになる。ここの見えないモノこそが「贈与」で、それによってまた築かれる言語ゲームがある。

今後、コミュニティと言語ゲームについて考えること

SNS、特にInstagramの普及で目の前の「あなた」と「わたし」に留まらない言語ゲームが増えてきている。もっと言うと、知るはずもなかった言語ゲームに簡単に価値観が塗り替えられる。今回とりあげている論争についても、SNSが普及する前には一部の港区女子にとどまるような言語ゲームだったのだと思う。近年度々SNSで話題になる「奢り・奢られ論争」にも同じことが言える。

一方近年、NFTをはじめとしたオンラインコミュニティの需要が高まってきている。オンラインコミュニティではそのコミュニティ独自の言語ゲームをコミュニティメンバーと築いていく。すでにできている言語ゲームに入ること・いくつものコミュニティに仮面を変えて所属することも増えると思う。これに伴って、自分とすごく価値観がかけ離れた言語ゲームに疲弊することは少なくなるとも思う。そう、私たちはSNSでボーダレスになったあらゆる言語ゲームに疲弊してる。だからこそ、今後は共感できるコミュニティ(広義の意味では宗教)が求められ、ここの需要はよりマスで高まるのだと思った。





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