応援は、「ヒーローであること」を背負わせることでもあって。
子供の頃、誰の心の中にも「無敵のヒーロー」がいたはずだ。
アニメの主人公はもちろん、両親や兄弟、友人が無敵に見えていた時期もあるだろう。
自分に何かあったとしても必ず守ってくれて、絶対に負けない最強の存在。
そんな特別なヒーローに守られている自分もまた、特別なのだと信じて。
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しかしやがて、その全能感とも呼ぶべき憧れには限界があることに気づく。
アニメはあくまでフィクションだし、生身の人間は勝つこともあれば負けることもある。
ヒーローだと思っていた相手は特別ではないし、私も選ばれた特別な存在ではない。
そんな諦めにも似た挫折を繰り返しながら、私たちは大人になっていく。
思春期特有の全能感とその挫折を描いた作品として、「溺れるナイフ」は秀逸だ。
個人的にもっとも感銘を受けたのは、自分がヒーローに向けてきた眼差しはある種のプレッシャーにもなっていたのではないか、と主人公が気づくシーンだ。
最強で無敵だと思っていた相手が特別ではないと悟ってしまったとき、相手のカッコ悪さに目を背けてしまった。
不完全さや未熟さごと引き受けられるほど、大人ではなかった。
その「がっかり感」が相手を傷つけ、理想通りの自分を演じられない後ろめたさを感じさせてしまったのは自分なのだと主人公が悟るのは、自分が同じ眼差しを向けられた時だった。
憧れて、応援して、好きだと伝えること。
それはともすると相手に「ヒーローであること」を背負わせることでもある。
主人公の気づきは、同時に私自身の気づきでもあった。
私は昔から、人を応援することが好きだ。
キラキラ輝く姿を遠くから眺めるのが好きだ。
でもはじめは純粋な期待だったものが、日を追うごとに「こんなに応援しているのになんで」「これまで信じてきたのに」と負の感情に転じる恐怖も感じる。
がんばってほしいという気持ちが、なぜがんばれないのかという批難に変わる。
愛情と憎悪は紙一重というけれど、応援はいともかんたんにプレッシャーに変わってしまうのだ。
子供の成長を願う親やパートナーに理想の姿を求めるのも、似たような真理なのかもしれない。
相手の成長が自分の評価に紐づいている場合、うまくいかなかったときの憎悪はさらに大きくなる。
応援こそが自分の努力であり、その努力に報いてくれないのは応援している相手の努力不足ゆえだと考えてしまうからだ。
そうやって、私たちは大好きだったはずの相手の悪いところばかりに目を向けるようになり、相手から避けれられることによってまた怒りを増幅させていく。
でも本当は、応援することによって傷つけたいわけではないはずだ。
プレッシャーを感じて欲しいわけでもないし、結果がでないからといって居心地の悪い思いもして欲しくない。
ただ相手が相手らしくあること。
楽しく幸福に過ごすこと。
本当の意味の応援は、ただ相手の幸せを願う行為のはずだ。
そのために必要なのは、相手に自分の存在意義を預けないことなんじゃないかと私は思う。
相手がヒーローじゃなくたって、そのことが私の価値を脅かしたりはしない。
そう思えるからこそ、悪いときも悪いときなりに受け止めて応援ができるんじゃないか、と。
相手の幸福は相手のもので、自分の幸福は自分のものだ。
自分の幸福を相手に預けっぱなしにするのではなく、相手の幸福を願いながら自分も自分自身の幸福を築いていく必要がある。
誰だって誰かのヒーローになりえるけれど、四六時中ずっとヒーローであり続けることはできない。
完璧じゃない瞬間すらも受け止めて支えること。
そうやってお互いを労わりあうために、「応援」はあるんじゃないだろうか。
「溺れるナイフ」のラストで、主人公はきっとそのことに気づいたのだと私は思う。
相手の輝きに依存せず、自分の輝きによって歩いていくこと。
そしてその輝きを生み出すために、相手への憧れと尊敬を持ち続けること。
応援は、私たち自身を輝かせるための内的パワーなのだから。
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