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人生はいつも迷子でありたい

旅行するのも好きだけど、旅行記を読むのも大好きな私。

特に自分ではできないような、破天荒な旅のエッセイが大好きです。

ここ最近の一押しは「私の旅に何をする。」を読んでからハマっている宮田珠己さん。

とにかく旅への情熱がすごくて、旅がしたい一心で会社まで辞めてしまう行動力から「深夜特急」のような硬派な旅行記かと思いきや、真逆の超脱力系な文体が癖になります。

毎回変なところに行ったり変なことに巻き込まれたり、それがまた面白おかしい文体で書かれているので、旅行記とは思えないほどお腹を抱えてゲラゲラ笑いながら読んでしまいます。

そんな大好きな宮田さんの「東南アジア四次元日記」を最近読み、またこの独特の世界観にハマりながらきっと自分自身は一生足を運ぶことはないであろう変な仏像が集まっている寺のエピソードなんかを読み散らかしていました。

そんな中でふと目に留まったのがこの一文。

今も私は、迷子になりたくて、迷うというその感覚を味わいたくて、旅に出ているような気さえする。

私はどちらかというと発展した都市に旅行することが多いのですが、同じようにひたすらうろうろして迷子になることに楽しみを見出すタイプなのでこの「迷うという感覚を味わう」という箇所に深く共感しました。

この迷うという体験については、あとがきでより詳しく説明されています。

まったく理解できない何者かに出会って混乱するような経験、つまりそれが発見というものであるなら、現代の旅の中では発見がほとんどできなくなってしまっている。
(中略)
我々は現実の自分の旅が、どこかで見、聞いた旅の追体験にどうしてもなってしまうジレンマの中にいるのである。

そう、私たちが旅行するとき、まずこれまで見聞きしてきたものの中から「これを体験したい」と思うものを選び、実際に体験し、体験した証拠として写真を撮ってSNSにアップする。

そこに真新しい発見なんてものはなくて、どこかで誰かが気づいたことの追体験でしかない。

前に台湾の九份に行ったとき、千と千尋の神隠しの舞台になったと言われる街並みはとても美しくて感動的だったけれど、その道中の冒険の方が記憶に強く残っていることをふと思い出しました。

猫にくっついていって明らかに民家が立ち並ぶエリアで地元のおじちゃんたちが将棋だか囲碁だかをやっている場に行き着き「なんでこんなところに観光客が!」と飛び上がらんばかりにびっくりした顔で見られたエピソードは、未だに友人との笑いの種になっています。

そういう自分だけのオリジナルな思い出をいろんな街に残していくことが、私にとっての "旅"なんだなと。

同じく最近「わたしのマトカ」で片桐はいりさんが地元の乗り物に乗りたがることを「小銭レベルの冒険」と表現していて、これもすごく納得。

日本にいる時はあまり乗らないバスも、海外では恐る恐る乗ってみたい。

知らないところに連れて行かれる恐怖と、楽しみと。

でもわたしとしては、迷えば迷うほど心ときめくのである。地図を見る範囲が広がる。予想外の街を知ることができる。なによりとてもスリルだ。

この2冊を通じて感じたのは、旅への向き合い方は人生への向き合い方にも近いのかもしれない、ということ。

私は普段の生活では大荷物になってしまいがちなのだけど、なぜか旅行のときは驚かれるほど小荷物で、手ぶらでどこまでもフラフラと行ってしまう。

おおまかに行くところは決めるけれど、歩きながら面白そうなところを見つけたら予定変更も厭わない。

ガイドブックで見つけたおいしいレストランに行く予定だったとしても、名もない道端の屋台でおいしそうなものがあったら食べてみたい。

ある場所の風景を気に入ったら、何をするでもなくずっとその景色を眺めていたい。

予定を消化するのではなく、そのとき自分に必要なものを選びとって惜しみなく感じて、私にしかできない旅をしたい。

「旅」を「生き方」に変えれば、そのまま私の人生観だ。

旅も人生も、迷子の時間こそが楽しい。

あちこち行ってはぶつかってジタバタして、何度も地図を広げて頭をひねって考えて。

迷子ライフを思う存分楽しんで、これからもオリジナルな人生を歩んでいこうと改めて感じた2冊の旅行エッセイでした。

(Photo by tomoko morishige)

私のnoteの表紙画像について書いた記事はこちら。


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