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リタイアは「魂のため」のボーナスタイム

「そういえば最近イチロー神はどうしているのだろう」とふと気になって、最近の動向を調べてみた。引退直後こそ草野球に興じたり中高生に指導する姿が話題になったが、時間が経つに連れて彼のニュースを目にする機会も減ったように感じていたからだ。引退直後は環境の変化もあって新しい人生を楽しめていたかもしれないけれど、そのアドレナリンが切れて「イチロー」ではなくなっていたらどうしよう、と勝手に心配までしていた。大変余計なお世話である。

調べてみた結果、つい最近も古巣のマリナーズでノックを受けたりしてなんだか楽しそうにお過ごしなされていた。杞憂とはまさにこういう状況を指すのだなと思う。

知らない間にマリナーズの「球団会長付特別補佐兼インストラクター」という謎の役職に就任されていたようだが、なんだかんだで「ただ野球が好きな一人のおじさん」を謳歌しているようだ。所属に縛られることなく自分がやりたいときにやりたいかたちで野球に関わっているイチロー神を見ると、実は世界で一番野球を楽しんでいる人の一人なんじゃないかと思えてくる。イチロー神レベルのレジェンドになると入れない場所もないし会えない野球関係者なんていないわけで、いち野球ファンとしては羨ましいお立場である。

引退してますます楽しそうに野球と関わるイチロー神の姿を見ながら、彼はやっと「仕事をまっとうするため」ではなく「自分の魂のため」に野球ができるようになったのだな、と気づいた。もしかしたら現役時代以上に幸福な黄金の時間を過ごしているのかもしれない、と。

彼のストイックな姿勢は誰もが知るところだが、ストイックすぎてチームが低迷していても一人だけ淡々とヒットを打ち続けていたので「自分のことしか考えていない」と批判された時期もある。そんな批判を受けるくらいに、彼は試合の勝ち負けとは異なる次元でバッティングを捉え独自の哲学を確立していたということだろう。

つまり現役時代から彼はすでに「魂のため」に野球をしているように私たちには見えていた。勝っても負けても終わることなく道を追求していく姿が、人気の理由でもあるように思う。

けれど実際に引退後のイチロー神を見ていると、やはり第一線で打席に立っている間は完全に「魂のため」に振り切ることはできなかったのだな、と当たり前のことに気付かされる。何万人ものファンが固唾を呑んで見守る中、試合結果を左右する重責を感じない人などいない。もし感じていないのであれば職業人として失格である。

仕事として社会から役割を与えられるということは、自分ではなく他の誰かを満足させる義務を負うことだ。職業人は他人の期待に応え続けなければならない。

イチロー神は、本当に野球が好きな人なのだなと思う。何十年も仕事にしていたら好きな気持ちより義務感が勝ってしまいそうなものなのに、引退した瞬間一人の野球好きに戻ってしまうほど好きな気持ちを純粋に保ち続けてきた人なのだと。野球少年が職業人として世界最高の場所まで上り詰め、また野球少年へと回帰していく様を、人生をかけて体現した人であるとも言える。

誰かに期待されること、求められることは人生における幸福のひとつである。けれども、いや、だからこそ、誰にも求められていないけれど自分の魂の充足のための時間が価値を増すのだろうと思う。
なんの役にも立たないけれど、ただ自分の満足のために時間と労力を割くこと。生き延びるために絶えず競争を強いられ、効率的に無駄なく成長することを求められる時代において、評価を気にせず楽しむ時間は自由と贅沢のシンボルとも言える。

そしてその贅沢は、逆説的ではあるが、職業人として努力を重ね結果を出し続けた人に与えられるボーナスのようなものなのだろう。

好きなことを追求し職業人として最高の評価を受けた上で、現役を退いたあとは再度自分のために好きなことに邁進する。これ以上に贅沢な生き方があるだろうか。

彼の生き方は特殊ではあるけれども、凡人である私たちも他者のためではなくただ自分の満足のためだけに過ごす贅沢を受け取る権利はあるはすだ。役に立つかどうかではなく、誰かに評価してもらうためでもなく、自分の中に純粋な喜びをもたらすために心血を注ぐこと。ボーナスタイムとしての「魂のための時間」が、いま現在の努力の先に待っているはずだと信じたい。

期待されてきた役割を終えてはじめて出会える喜びがある。現役時代よりも笑顔の写真が増えた彼の姿は、図らずも人生のロスタイムが増加してしまった人類にとって希望の星ではないかと思う。

※筆者は普段イチロー神のことを「イチロー神」と呼呼んでいるため、本稿において「イチロー」と呼び捨てにすることにも「イチローさん」「イチロー氏」とといった他人行儀な敬称をつけることにも違和感が生じたため、表記は「イチロー神」で統一している。

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