『知る』ことによる幸福と不幸について
行き詰まって悩むときというのは、大抵の場合、自分が持っている選択肢が少なすぎることが大きな原因だと思う。
以前SHOWROOMの前田さんが『小学生でたこわさが好きっていう子はなかなかいないですよね?でもそれは、単にその子がたこわさを食べたことがないだけで、食べてみたら一番好きな食べ物がたこわさになる可能性だってあるはず』という話をしていたけれど、このたこわさ理論はあらゆることに通じる考え方だ。
キャリアも人間関係も恋愛も、『この中から選ばなければ』という思い込みによって、本来悩まなくていいことを悩むことになる。
ちょうどこないだこのnoteのおまけで私が最近一番尊敬している女性について書いたのだけど、ロールモデル不在の時代には、自分が今いる世界の外に理想を求めにいくしかないのかもしれない、と思う。
つまり、今の業界に憧れの人がいないのなら他の業界に目を向けるしかないし、日本にいないのなら世界中を見渡して参考になりそうな人を見つけるしかないのだ。
もちろんロールモデルがなくても自分で新しい道を開拓できる人もいるだろうけど、大抵の人は1人で獣道を邁進できるほど強くはないし、そもそも自分の想像の範囲だけで意思決定をしようとすると機会損失も大きい。
本当は藪の中に山頂までの近道があるのに、気づかずに通り過ぎたり、気づいていても勇気がでなくて遠回りをするのはもったいないことだと思う。
私自身、これまで『ロールモデルにしている人は?』『注目している女性は?』と聞かれても毎回パッと答えられず、『こうなりたくない』のイメージはあっても『こうありたい』という具体的なイメージが描けず、悩むことも多かった。
両親を筆頭にみんな結婚して子供を産んで、子育てしながら働くのが幸せなのだと言うけれど、それは私が思う幸福とはちょっと違うし、やりたい人がやればいいと思っている。
厳密にいうと、子供は大好きだし家族は必要だけど、法律婚をして旦那さんと一緒に子供を育てることと自分のやりたい仕事とを両立しながら幸せに暮らすということが、私にはさっぱりイメージできない。
さらにいえば、既婚未婚に限らずこういうスタンスで働きたいという憧れのロールモデルも見つからず(いないわけではなく、そういう人は忙しすぎて表に出てこないだけな気もしている)、育児と仕事の両立は想像以上に大変だという友人のリアルな声ばかりが耳に入ってくる。(※)
しかし、ある日ふと気づいた。
そもそも日本の中だけでロールモデルを探そうとすることに限界があるのではないかと。
もちろん社会規範や文化が違うとそのまま参考にできないことも多い。例えば日本で住み込みの家政婦を雇うなんて相当な富豪じゃない限り不可能だし、女性管理職の割合も国によって大きく異なる。
ただ、考え方やスタイルの面で、理屈抜きに『かっこいい』と思える人を広い視野で探すことは、自分を支える上で意味のあることだと思う。
例えば日本ではまだユニコーンと呼ばれるレベルまで事業を育てた女性CEOはほぼいないけれど(私が知らないだけだったらすみません)、海外では当たり前のように存在する。
家族観としても、自分は上海、夫はインドで働き、子供はアメリカとイギリスにそれぞれ留学している、なんてケースもたくさんある。
逆に、バリバリ働いた分もうこのあとは子育てだけしたい!と何人も子供を産んだ上に、養子を引き取ったり里親として『人を育てる』ことに邁進する人の話も面白かった。
こうした事例がよくて今の日本のあり方が悪いという単純な話ではなくて、なにかひとつの正解を追い求めなければならないという閉塞感につながっているのではないかと思うのだ。
私は田舎の公立高校出身なのだけど、当日は田舎の高校あるあるで『国公立大学以外目指してはいけない』という価値観の中で生きていた。
だから早稲田も慶応もMARCHも名前くらいは知っていてもほぼ存在しないも同然だった。
だって、私がそこに行く可能性はほぼゼロなのだから。
金銭的な問題だけではなくて、先生も親も、ましてや同級生すらも、国公立大学に行く以外の選択肢はないという空気を醸成している世界では、それ以外の世界があることなどイメージできない。
私が本当の意味で早慶やMARCHの価値に気づいたのは、大学進学で東京に出てきて、他の大学の人たちと話すようになってからだ。
もし地元の大学に進学していたら、いまだに『私立より国公立が上』という価値観のまま生きていたかもしれない。
そしてもし大学受験当時に、こうした知識はもちろん、海外への進学なんかも視野にいれていたとしたら、自分の人生はどうなっていたのだろう、と思うことがある。(学力や金銭的な面で実現できたかどうかはさておき)
この経験があるからこそ、私は『知らない』ということの恐ろしさを強く感じている。
ただ一方で、『知ることによる不幸』もあると思っている。
今私たちは、SNSによって地球の裏側に住む人の生活までが覗けるようになっている。
これまでは交わることもなかったキラキラした世界と自分を比べて落ち込んだり、膨大な選択肢の中から選び取るコストが大きくなることは、人を混乱させ、不幸にする。
なんでも知ればいいというわけではなくて、無闇に知識だけ増やすことはたしかに私たちを不幸にしてしまう。
それはそう、なのだけど。
私自身このバランスの難しさについては度々考えていて、例えば知ったところで手が届かないものの存在を教えることは人を不幸にするのかも知れない、と思ったこともある。
でも、そもそも『知った上でそれを選ばない』ということと、『知ったのに選べない』ことはまったく別の話で、後者に関しては知った上で選べるようなアプローチが必要だ。
そして情報が多すぎると惑わされるという問題も、実は選択肢が狭すぎて『これ』というものに出会っていないだけの可能性もある。
だからやっぱり、『知っている』ことの範囲を広げるのは大事で、その可能性を人が勝手に摘み取ってはいけないと思う。
インターネットによって、この20年で世界ははるかにフラットになったはずなのに、いまだに私たちは分断された狭いコミュニティの中で、少ない選択肢の中から無理やり意思決定をしようとしている。
世界は本当は思っているよりももっともっと広くて、自分の想像を超えるものや人に溢れていて、自分らしくいられる場所はたくさんある。
さらに、時間の軸を引き伸ばして過去まで遡れば自分に合うものに出会う確率はもっと上がるだろう。
学ぶということは単に生き抜くためのスキルをつけるというだけではなくて、『こうしなければ』という思い込みから私たちを解き放ち、より生きやすい選択を助けてくれるものではないかと思うのだ。
※…ちょうどこないだNewsPicksの記事でも、学校を卒業するときには専業主婦志望は2%しかいなかったのに、実際に働いて出産したら15%近くが会社を辞めるという話がでてきて、リアルな友人たちも実際に辞めたり辞めたいと言っている人がけっこういるのでさもありなんと思った。
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今日のおまけは無料部分に関連して、『誰かの犠牲の上に幸福があると知ること』について。
先日読んだ記事に出てきたこの言葉が印象的で、自分自身この視点が欠けていたことに気づき、とても恥ずかしく思いました。
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