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その仕事は「再生産」する意味があることか

「料理長」になるための教育はない。

取材でそう聞いたときは驚いたが、考えれば考えるほど、たしかに料理長以外にも「◯◯長」と呼ばれる役職の仕事は、手取り足取り教えたり言語化して引き継ぎしたりできるものではないと納得した。

現場を滞りなく回していく責任者としての「副◯◯長」までは、誰がやっても回るようにある程度マニュアルもあるし、こうあるべきという正解もある。

しかし「副」がとれて「◯◯長」になった瞬間、仕事内容はがらりと変わる。突き詰めると、「◯◯長」の仕事は「決める」こと、と言えるだろう。社長や編集長も、まずは何をどうつくっていくかといった方向性を決めるのが大きな仕事だ。

この「決める」という仕事は往々にして個人のセンスに依るところが大きい。ゆえに、新しく就任したからといって仕事内容を手取り足取り教えることはできない。「◯◯長」の仕事は、テクニックやマニュアルではなく、人間力のすべてで向かっていくしかないものだからだ。

岡部さんに取材したなかで、個人的に特に感銘を受けたのは「同じ考え方を踏襲するだけではいけない」という話だ。

そもそも、料理長の仕事は言葉で教えられるようなものではないんです。どうやって献立を組み立ててきたかを教えるのは簡単です。でもそれでは同じ考え方を踏襲するだけになってしまう。料理長は、自分のものづくりの哲学をつくりあげなければなりません。自分なりの哲学を持ってはじめて、自分で考えて献立をつくることができるようになるんです。

どんな役職であれ、前任者が偉大であればあるほど、その哲学や考え方をそのまま受け継ぎたくなってしまう。特に創業者や初代から引き継ぐ際は、そこについてくださったファンのためにも、「なるべく同じものを」と考えてしまいがちだ。

けれど、前任者がうまくいっていたからといってその「再生産」になってしまったら、人間がやる意味はない。今後ますます人工知能が進化していけば思考パターンのトレースの精度もあがっていくだろうし、企画の案だしですらも「あの人っぽい」ものをAIが吐き出してくれるようになるだろう。

では人間が「決める」役割を担う意味はなにかといえば、以前のやり方をそのまま再生産するのではなく、その人が入ることによって起こる偶然性やセレンディピティを入れていくことなのではないかと思う。前任者の人生のなかにはなかったエッセンスを、後継者が自分自身の経験として追加し、体現していく。その繰り返しによって、「いいもの」は受け継がれていくのではないだろうか。

もちろん、記事のなかで岡部さんも語られているとおり、変えていくべきところだけでなく、変わらず守りつづけていくべきところもある。しかし「何のためにやるのか」「誰に届けたいのか」さえブレなければ、あとは決める人によって柔軟に変えていけるほうが、結果的に長く大切な「精神性」の部分を受け継いでいけるのではないかと思う。

私たちの普段の仕事は、「誰でもできるようにすること」「安定して同じものを提供すること」に重きをおくことが多い。たしかにある程度のレベルまではそういった基礎を鍛えることが必要ではあるけれど、その基礎をもとに何をつくりだしていきたいのか、自分の哲学を形成する手助けをすることもまた、「教育」なのではないかと思う。

そしてその教育は、言葉にしてマニュアルのように教えられるものではなく、長い時間をかけて背中で伝え、学びとっていくものだ。自分と同じような人間を再生産するのではなく、自分にはない要素を吹き込んでくれる人を育てるために。合理的でも効率的でもない、泥臭い「教育」が、今改めて必要とされているのではないかと思うのだ。


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