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息をするために飛行機に乗る

旅の本は、よく空港の描写からはじまる。舞台が海外であればなおさらだ。飛び立つその日の朝から旅ははじまっていて、空港での時間もまた「旅」の一部なのである。

私は序盤に空港の描写があると、それだけでまず胸がいっぱいになってしまう。不安と期待が入り混じる国際空港特有の雰囲気を思い出すと、自分が旅したときの記憶が鮮明に蘇ってくる。著者が旅した国やそこで出会ったできごとは自分の経験したことがない未知の世界であっても、空港の空気感だけはとても高い精度で「わかる」ことができる。非日常が高い純度で充満している独特の空間を、昨日のことのように思い出すことができる。
日常の皮をするりと脱ぎ去って、何者でもない「私」として、未知の世界に向かう高揚感。思い出すだけでため息が出るほど甘美な感覚だ。

トランジットのために空港で一晩を過ごしたとき、死後の世界は意外とこういう感じなのかもしれないとふと思った。
空港の中と外では流れている時間が違うような気がする。日常の時間の流れからはまったく切り取られて、自分がポカンと宙に浮いているような感覚に陥った。
この世界には私だけしかいないだろうかと心配になるほど静かな国際空港のロビーで、ぼんやりとスマホを眺める。数時間前はたしかに自分ごととして掴んでいた情報たちが、時差のせいなのか遠い国の話に聞こえる。実際、物理的な距離も離れているので現在の居場所から見れば「遠い国」であることに変わりはないのだけれど。
空港という場所には日常の入り込む隙間がないから、日常側の時間感覚とはズレが生じるのかもしれない。時間が止まる、というよりは時間という感覚を失念してしまったと表現する方が正しい気がする。
近くで寝ている外国人ファミリーの寝息やピカピカ光りながら飛び立つジェット機の姿が、ときおり現実の世界に私を引き戻す。そして定刻になれば「日常」側の時間にあわせていそいそと搭乗準備をし、向こう側の日常へと入り込んでいく。

空港という場所は、日常から別の日常に渡る際のエアポケットのようなものなのだと思う。

私が海外に行きたいというとき、それは国際空港のエアポケットに落ちる体験も含まれている。
外国であって外国でない、現実であって日常ではない。そんな特殊な空間に、心が躍る。

空港で高揚感が極限に達した頃、飛行機はゆっくりと地面を離れ別の日常へと私を運ぶ。帰る場所があって、向かう場所もある。だからこそ、途中の空白に安心して浸ることができる。
国際線の機内で到着までの所要時間を確認した後、うとうとしながら眠りに落ちていく。その時点ですでに旅の目的の半分は達成しているような気がする。知らない場所へ運ばれていく安心感が、私の身体をじんわりとした幸福で満たしていく。

私は、「日常」を暴力的に振り切る装置としての飛行機を定期的に利用することで、日常を保ってきたのかもしれない。維持するためには、たまに距離をとらなければならない。それが私と日常のほどよい距離感なのだろう。

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