物語を通して、自分の中にある残酷性を見る
長期休みになると毎回、普段読むには重たい作品をチョイスして一気に読むことにしているのですが、今年の年末年始は「大地の子」を読了しました。
中国残留孤児をテーマにした作品で、アメリカで育った日系2世を題材にした「二つの祖国」を昨年読んでいたこともあり、改めて民族とアイデンティティについて考えさせられる部分が多々ありました。
心は生まれ育った国の人間なのに、見た目や出自が異なるゆえにその国の一員として認めてもらえない辛さを主人公たちは何度も味わいます。
自分を守ってくれると信じて疑わなかった"自分の国"から、両親が日本人であるがゆえに手のひらを返され、迫害にあい劣悪な収容施設で過ごさざるをえない主人公。
山崎豊子は徹底した取材力で有名ですが、小説にでてくるエピソードも実際に起きたことがほとんどだそうで、その事実にもショックを受けました。
読み進めるたびに「人は人に対して、ここまで残酷になれるものなのか」と驚くことばかりだったからです。
ただその残酷性は単体で非難されるべきものではなく、戦争や覇権争いという "システム"に巻き込まれた瞬間、誰もが攻撃する側に回る可能性を秘めています。
スタンフォード監獄実験という有名な心理実験でも実証されているように、人はもともとの性格に依らず看守の役割を与えられるとその役目をまっとうし、次第に歯止めが利かなくなってしまいます。
それをドキュメンタリー形式として描き出したのが「アクト・オブ・キリング」という映画。
予告とあらすじだけですでに恐ろしく、気力・体力が十分なタイミングを見計らって観ようと思いつつまだ本編を見れていないのですが、インドネシアで起きた100万人大虐殺を起こした人々に当時を再現してもらうというドキュメンタリーです。(興味のある方はWIREDの記事もおすすめ)
はじめは全く悪びれることなく、むしろ嬉々として当時の様子を語り、撮影に協力する当時の加害者たち。
しかし撮影が進むうちに「もしかしてあの時、自分たちはとんでもないことをやってしまったのではないか?」と気付きはじめます。
この「はじめは全く悪びれることなく」という部分がキーで、当時インドネシア国内で絶対悪とされていた共産党員は殺しても問題ない、むしろ殺したものは英雄であると心の底から信じていることがインタビューの様子からも伝わってくるほど。
大地の子を読みながら「どうしてこんなことをするんだろう」「なぜ悪いことだと気付く人がいないのだろう」と主人公ととともに辛い気持ちになりましたが、当時はそれが "正義"だったのであり、今の価値観で照らし合わせるから残酷に映るのだと気付きました。
そして私たちも知らぬ間に傍観者になり、加害者になり、100年後の世で「あの当時なぜこんなに残酷なことが起きたのか」と言われることになるかもしれません。
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私たちはいつも悲惨な事件や事故を目にするたびに憤り、「自分ならそんなこと絶対しないのに」と思います。
果たして、本当にそうでしょうか。
私たちが生きる現代社会のアタリマエが人を差別し、苦しめていることはたくさんあるはず。
小説や映画にでてくる悪役は得体の知れないモンスターなんかではなく、自分自身の中にある残酷性が投影された姿なのかもしれません。
自分は聖人君子でもなく、常に正解をもっているわけでもなく、ちょっとしたきっかけで残酷な面が暴走してしまう、そういう存在なのだと自覚することこそが平和への一歩なのだろう。
そんなことを考えさせられた作品でした。
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(Photo by tomoko morishige)
私のnoteの表紙画像について書いた記事はこちら。
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