"研究過程"にこそ価値がある
先日日経新聞が発表して話題になった完全自動決算サマリー。
AIが自動生成したサカイ引越センターの決算サマリーは人が書いたものと大差なく、SNSでも驚きの声が上がっていました。
(参考:「この記事を書いたのは人ではない」→どんな酷い内容かと思ったら本当に人じゃなくて驚愕の人々「来るとこまで来たな」- togetter)
事実を寄せ集めて文章にするだけなら、もはや機械に任せられる時代。
では「ものを書く」仕事がすべて機械に置き換えられるかというと、これからは逆に誰もが「書く」「発信する」ことがさらに重要になるように思います。
それは以前つぶやいたこの考えがもとになっています。
ここ最近でコンテンツマーケティングという言葉が一般化し、スタートアップの中でも安価にリード獲得ができることからオウンドメディアをはじめるところが増えてきました。
潜在ユーザーが検索するであろう単語を散りばめて、自社サービスを利用するように誘導する。
そのためには記事数が必要になるので、大学生のインターンや単価の安いライターに依頼して記事を量産する。
それがこれまでのオウンドメディアの "定石"でした。
しかし「書く」ためにはその裏で何倍もの本や記事を読んだり、データや定義を確認したり、取材してじっくり話を聞いたりといった作業が必要です。
なんとなくこうだろうと思っていたことがただの思い込みだったり、調べてみたら書きたかった結論と真逆の事象を発見したり、公開した記事と同じ数だけボツになった記事やテーマがあります。
でもそれは逆に言うと「記事を書く」というプレッシャーがなければ、それだけ調べたり話を聞きに行ったりせずに自分の小さな世界の中で「こうなると思うんだけどなあ」とふわふわ考えるだけで終わってしまうということです。
誤解を恐れずに言えば、メディア=どこにでも行けるパスポートです。
突然「お話を伺いたいのですが」と連絡したところで、普通は営業だと思われて無視されて終わりです。
でもメディアとして「取材させてください」と言えばほとんどの場合承諾してもらえます。
(もちろんその際取材費を出さないのであれば、相手のメリットになる内容・質を担保することは大前提です)
自分たちが最前線でユーザーと同じように何かを売ったり作ったりしているわけではない以上、市場全体の流れを「調べる」ことと1人1人のユーザーの話を「聞く」ことでしか自分たちのサービスの真のニーズを掴むことはできません。
そんな大切なことをコアメンバー以外の人に任せてしまうのはあまりにもったいない。
オウンドメディアはリード獲得や広報的な位置づけとしてだけではなく、自分たちの市場やユーザーへの理解を深めるための存在でもあるのです。
そして私自身オウンドメディアとnoteのどちらも書いていて思うのは、人は研究過程にこそ好意を持ちやすいということ。
基本的にオウンドメディアの方は主観をいれずに事実にフォーカスして書いています。
対してnoteは「私はこう思う」「こうなると考えている」というまだ曖昧な、研究途中の一部をチラ見せするような意識で書いています。
本当に価値が高いのは客観的に書かれた "事実"の方だと思うのですが、シェアやいいねが増えるのは、意外にもまだちょっと自信のない「こうかもしれない」という私自身の意見や考え方だったりします。
つまり完璧な研究成果を披露するよりも、研究過程を公開することこそがファンを作り、人を巻き込む第一歩なのだと思います。
そして支持してくれる人がいれば、もし今手掛けていることがダメになってもその次の手を打ちやすい。
これからAIの発達によって正解へすぐに到達できるようになる中で、私たち人間が創り出す価値は「不確かなことへ挑戦しつづける姿勢」なのかもしれません。
なんてことを、羽生善治さんの名言を目にして改めて思ったのでした。
「何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続しているのは非常に大変なことであり、私は、それこそが才能だと思っている。」
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(Photo by tomoko morishige)
私のnoteの表紙画像について書いた記事はこちら。
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