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真に「教養がある」とは何か

最近ずっと考え続けていたことのひとつに、『アート礼賛主義への違和感』がある。

これからはロジックではなくアートの時代であり、名経営者はみなアートに関心を持っている、だからビジネスパーソンはアートを学ぶべきだ!という論調への、なんとも形容しがたいうっすらとした違和感。

振り返ってみれば、ここ2、3ヶ月の間に私が書いたnoteのほとんどは、根底にその課題意識があったような気がしている(これとかこれとかこれとか)。

あれこれ言葉を変えながらこの問いに取り組んできたのだけど、ようやくわかったのは、現在巷で言われる『アートを学ぶ』ことの目的が、結局『自分の私利私欲を満たすため』でしかないということが、違和感の正体だったということ。

私はいわゆる絵画や彫刻といった『アート』に関しては完全なる素人だけれども、例えば文学という芸術において『明確な目的を持って純文学を読む』というのは大きな矛盾を孕んでいると思っている。

なぜならば、芸術というのはそもそも現実世界ですぐに役立つために作られているものではないからだ。

たしかにいい芸術作品は、どんな分野であれ鑑賞者の世界を一変させる力を持っている。

しかし、それが死ぬまでの間に自分にとって役立つものかどうかはわからない。

人が一生をかけて咀嚼できるかどうかわからない、そのくらい長い時間軸で存在しているものこそが『アート』なのであって、すぐに役立つのであればそれは工業製品の類だろうと思う。(あくまで優劣ではなく、区別という意味で)

そして私たちが真にアートから学ばなければならないのは、その作品の意図や歴史といった言葉で説明できるものではない。単に知識データベースを増やすだけでは真の教養は身につかない。

では、私たちは芸術に対してどう相対するべきなのか。

私は『自分の感性を信じる』訓練こそが、一番重要なことだと思っている。

有名だから、まわりがいいと言っているから、値段が高いから。

そうした他者基準をもとにアートに接したところで、得られるのはちょっとした雑談のネタくらいだろう。

過去の偉人たちがアートに傾倒したのは、そこに『経済合理性を無視する胆力』を感じていたからではないかと思う。

それは言い換えれば、評価期間を5年、10年といった短いスパンでみるのではなく、100年、300年、なんなら1000年といった超ロングスパンで見るということでもある。

『自分が生きている間に投資回収できないかもしれない』という巨大プロジェクトにどれだけ資産を投下できるか。

その器を広げ、いかなる場合も自分の判断に確信を持つということが、本当の意味で『教養がある』ということなのだろうと私は思う。

一見すると経済合理性をまったく無視したプロジェクトを推し進めるには、自分の価値判断基準に対して寸分の迷いもあってはならない。

自分を信用できていない人が、他人を信用させることなどできないからだ。

だからこそ、日頃から他者基準ではなく自分の基準でものごとを見る力を養い、そして判断する胆力を養う必要がある。

つまり、すでに他者によって評価されたものを表面だけなぞってわかった『つもり』になっただけでは、本当の意味でアートを学び、教養をつけるということにはならないと私は思っている。

もちろん、時代を超えて愛されてきたものにはそれなりの理由があるし、出会いのきっかけとして他者のフィルターが介在するのは当たり前だ。

しかし、いざそのものと相対したときに『自分として』どう感じたかこそが大事なのであって、いいか悪いかの判断に他人の軸が入り込むこと、よもやその解釈において『正解』があるなどと思い込むことは、単に知識を詰め込んだだけの面白みのない人間を作りあげることにしかならない。

そんなことは機械に任せておけばいいのだ。

『学生との対話』の中で、小林秀雄はこんなことを言っていた。

信ずるということは、諸君が諸君流に信ずることです。知るということは、万人の如く知ることです。人間にはこの二つの道があるのです。知るということは、いつでも学問的に知るということです。僕は知っても、諸君は知らない、そんな知り方をしてはいけない。しかし、信ずるのは僕が信ずるのであって、諸君の信ずるところとは違うのです。

ここで小林秀雄が言っている『信ずる』という感覚を体得するということ。それこそが、私たちが芸術から学ぶべきことの最たるものなのではないだろうか。

そしてその『信ずる』力が自分自身の寿命すら超えた長い時間軸であればあるほど、世間でいう胆力があるとか、器が大きいという評価になるのだろうと思う。

ピーター・ティールが『ゼロ・トゥ・ワン』で提示していた『賛成する人がほとんどいない、大切な真実はなんだろう?』という有名な問いがある。

世界中で自分だけが気づき、そして誰よりも信じている、たったひとつの真実とは何か。

この問いに答えるに足るだけの思想を自分の中に育んでいるかということこそが、『教養がある』という状態なのではないだろうか。

それは決して『こうやれば儲かる』とか『こうすれば成功する』といった、今の自分に利益をもたらす類のものではない。

もっといえば、『将来的に投資回収しよう』『死後でもいいからいつか評価されよう』という、単に利益のポイントを先延ばしにしただけのものでもない。

たとえ誰一人理解してくれる人がいなかったとしても、『これが自分にとって絶対的な正解だ』という強い思想を持つということ。

人生が飛躍的に長くなってしまった今、他者の目を気にしながら刹那的な享楽に生きるよりも、そうした教養ある生き方にこそ、人は惹かれるようになっていくのではないかと私は思っている。

***

私のnoteで、なんどもなんども繰り返し引用してきた勝海舟の言葉がある。

世間の人はややもすると、芳を千載に遺すとか、臭を万世に流すとかいって、それを出処進退の標準にするが、そんなけちな了見で何が出来るものか。男児世に処する。ただ誠意正心をもって現在に応ずるだけのことさ。あてにもならない後世の歴史が、狂といはうが、賊といはうが、そんな事は構ふものか。要するに、処世の秘訣は誠の一字だ。

この言葉をはじめて読んだ時から『わかった』つもりになっていたけれど、1年以上たった今、やっと本当の意味でこの言葉が『わかった』という状態に至れたような気がする。

と言いつつ、きっと5年後も10年後も同じように『あのときはまだわかっていなかった』と反省するのだろうし、その積み重ねの上に自分なりの軸と道が出来上がっていくのかもしれない、と思う。

かように、たった数行のフレーズですら(いや、『だからこそ』か)、本当の意味で『わかる』には膨大な時間がかかるものだ。

こうした個人的な経験からも、表層的な言葉や意味付けだけで『わかった』気になることがいかに危険なことか、そして『わかる』という営みに対してコスパや投資回収という概念がいかに無力か、ということを改めて感じるのである。

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今日のおまけは、『アウトプットそれ自体は思考の抜け殻である』という話。

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