ウカ様とハインリヒ・フォン・クライスト
『SFマガジン』2021年2月号掲載の小説 届木ウカ『貴女が私を人間にしてくれた』のプロットの重要な部分への言及(ネタバレ)があります。
どうも、ウカ様の剥製のひとり、カイセーと申します。
発案者ボヘミアの緑の草原 @kuta_liver さんよりお誘い頂きまして、アドヴェント企画「届木ウカ Advent Calendar 2021」の三日目の記事としてウカ様について書かせていただきます。(二日目の記事はこちらです【2021年のウカ様を総ざらい!! 】
ウカ様とハインリヒ・フォン・クライストというタイトルですが、どちらも多彩多才な天才ということで並べさせていただきました。かたや21世紀の、かたや19世紀ドイツの。なによりもウカ様の小説『貴女が私を人間にしてくれた』の怒涛と衝撃のラストを読んですぐにクライストの戯曲『ペンテジレーア」を思い出してしまって以来、時代を超えてリンクしてるお二人だと感じています。そしてまた19世紀には全てになろうとして果たせなかった魂が今では全てになりつつあるという予感も。クライストの描いたアマゾンの女王にして戦士ペンテジレーアは初恋の人アキレウスを恍惚の中で軍犬たちと共に貪り食ってしまうのですが、ウカ様の小説の主人公もまた最愛の人と歓喜のうちに一つになってしまいます。そのすぐ後に存在を終えるところもまた一致しているのですが、やはり自殺ではないのです。愛によって完成した魂にはもうその後の時間が必要ないだけだった!
…などと思い出すだけでひとり盛り上がってしまい、『あなワタ』はラストへ向かう勢いがあまりに激しいので、もはやアキラさんがどういう人だったのかとか未来アイドル部の他の二人はどうなったのかとか、背景に思いを巡らす余地もないぐらいで疾走した読後感をずっと取っておきたい。ですが、あえてゆっくりもう一度読んでみるともう序盤から不穏でワクワクしてきます。「教頭先生」の明らかに絶対に教頭先生ではないっぷり。ウカ様の書かれるものが『トゥルーマン・ショー』みたいにほのぼのとヌルく終わるわけがないという不安な信頼感。風呂とトイレ以外全部覗かれ続けコメントされ続けている生活がアイドルの普通の生活として平然と受け入れられているさま。ヴァーチャルなアイドルどころかヴァーチャルでない部分がない存在。露ほども自分のことと思わないで「共に生きましょう」などと言ってしまう主人公の素朴さ単純さと、もうアキラさんが「いや、君のことだよ」と言うのは分かりきっている時の読者としてのもどかしさ。すべてがたまりません。
なにがここまで刺さるのかといえばやはりこれを書いておられるのがウカ様だからで、それはただ推しの作品だからというだけではなく、ヴァーチャル存在がヴァーチャル存在について語るという自己言及性であって、もちろん人が人について書いている以上すべての物語は自己言及的だと言うこともできるのですが、それがヴァーチャルアイドルという形で一周回ってより本質的により純粋になったということです。全ての哲学的疑問は存在への問いに集約されるというぐらいですから、仮想現実的存在について考える時に私たちは存在について最も本質的なところに近づいているのではないでしょうか?
この存在のヴァーチャル性ということについてウカ様は『レディ・プレイヤー1』の感想として「ラストで『ヴァーチャルだけじゃなくて現実も大切に』みたいな結論になってしまっているのはやっぱり一般に受け入れられる映画の限界かも」みたいなことを言っておられたのですが(どの動画でだったか、生放送でだったか、ちょっと分からなくなってしまっていて不正確な記憶引用で済みません)(追記:もともとの配信では【やっぱり「現実だけがリアルだから」みたいなリアル至上主義に陥ってしまった】という部分が特に批判的なものの、全体には『レディ・プレイヤー1』の感想を通じてVRの可能性を強調なさり、是非この映画を見るよう勧めておられました。もちろん私も勧められて見ました!)
(VRはリアルでの不利を無化して、その人がリアルで発揮できない能力や魅力を高めることができるといった考えからするとウカ様は)もともとリアルとヴァーチャルというような安直な二項対立には批判的でおられるように思われます。それは一般的な「設定」のある Vtuber とは一線を画したウカ様の「リアル」との関わり方にも見ることができます。大学も実在の大学を卒業されますし、投票の勧め(私も選挙に行ったのを褒めていただきました!)とか、ワクチン接種の予約指南とかいった現実の生活に関わる問題について具体的に発言する Vtuber は多くないでしょう。「美少年を名乗らない理由」の時にもそうでしたがウカ様の活動の軌跡は、ヴァーチャルな「設定」とか「キャラ」「属性」の束縛なしにはなりたたないようなヴァーチャルアイドルを脱する方へと向かっておられます。活動の場の一つである youtube のことも「パーソナリティを切り売りする場所」とかなり突き放した感じでとらえておられるのが印象的。ですからそんなウカ様が、アイドルたちのショウ生活から始まる物語をほわほわしたハッピーエンドにするわけがなく、私の印象としてはウカ様には Vtuber のあり方にかなりハードに批判的(ネガティヴとかマイナスにとらえたとかいう日常語彙における意味でなく、クリティカルシンキングの、問題発見的な)思考が根底にあると見え、『あなワタ』は、その中で愛を追求するとああなるのか、と腑に落ちる、あれしかないと思える終わり方でした。
リアルとヴァーチャルという、もはや陳腐に堕した常套句の二項対立ですが、これが19世紀だと現実と夢ということでロマン主義の作家はしばしばこの二者の対比から作品を構成しました。ところがハインリヒ・フォン・クライストはむしろ現実を包摂するものとして夢を置いています。代表作『ホンブルクの公子フリードリヒ』の主人公をクライストは夢遊病者として描きましたが、そのラストは希望と絶望の間をふらふらしながら最後に覚悟を決めた公子がその死刑直前に目隠しを取られて夢に望んだ公女の愛と恩赦を手にするというものです。「夢じゃないかこれは?」とつぶやく公子に歴戦の大佐は「夢ですとも。他の何だとお思いか」と答えてこの戯曲は終わるのですが、普通逆だと思いませんか?「いや夢じゃないよ、夢に見た恋の成就と戦場の輝かしい勲功から一転死刑となる運命に翻弄されたけど最後はバンザーイ」と終われば普通のハッピーエンドなのに。わざわざ夢遊病も癒えた公子にこれは夢だとダメ押しして終わるので観客はポカンとします。しかしクライストの他の作品も読むと「人の思うところのものこそ現実であって「現実」はその貧弱な一部に過ぎない」という思想が根底にあると思われてくるのです。クライストの怪談しかり喜劇しかり悲劇しかりで、ただの観念的な懐疑論ではなく「『現実』が人間の考えを作るのではなく、人間の強い思いのほうこそが現実を作る」という主張が根底にあるからこそ現実は夢であると言えるわけです。これをウカ様ふうに言うなら、たとえその夢や願いがひどく奇妙に見えても、あなたがそれほどまで強く夢見るならそれはもう虚構じゃなくて(あなたの願いという)真実ですよね。見せたい虚構の自分ってもう虚構じゃないじゃん現実じゃん、という、これがアウフヘーベンか。本来の意味の。
こういうふうに、ウカ様の中に勝手に19世紀ドイツの天才作家との共通点を見出して「やはり…天才か」と後方腕組み剥製面するのが私の日課になっているのですが、クライストは生まれるのが早過ぎたし、軍人になろうと思ってやっぱりやめた、大学も一年でやめた、官吏になったけどすぐやめた、文学雑誌を創刊したけど誰も寄稿してくれなくて自分で埋めるしかなくて1年でやめた、劇作家になったけどあんまり売れないし発禁・上演禁止になるしでやめた、ついでに人生もやめた、という人なので持続的に学び続けてそれを形にしておられるウカ様とはそこは全然違います。飽きっぽいのではなく、多方面に興味を持ち続け生成しつづける人生にとって19世紀は技術がスロー過ぎたのでしょう。技術が関心を支える現代に、ウカ様がなりたいウカ様になろうという学習とその持続する意志、それが現実を作り出すのを現代において目撃する私たちはもはやウカ様の一部と言っても過言ではありません。私たちはウカ様が制作なさる剥製として鼻高々にお屋敷におさまり、あと千年はウカ様の業を拝見しようではありませんか。
お読みいただきありがとうございました。明日はボヘミアの緑の草原さんによる投稿が予定されています。剥製の皆さん、また明日。
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