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知識を広げ、知恵を深める      2023.10.17

梵我一如という言葉がある。この意味は、次のようになる。

梵我一如(ぼんがいちにょ)とは、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること[1]、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りとされる。

Wikipedia


私にとって宇宙(ブラフマン)とは、マクロ的であり、音楽みたいなものであって、他者の世界とりわけ、知識のような側面をもつように感じられる。それとは逆に、私にとって、我(アートマン)は、ミクロ的であり、美術みたいなもので、個人の世界とりわけ、知恵のような側面をもつように感じる。

宇宙の広がる方法をわたしがとらえた場合、もちろん知識やことばとしての広がりをもつものとされるため、量的にはかれるものであると思えるし、また、私が自身やみずからのことばとらえようとした場合には、質的ではかれないものであると思う。

つまり、一方は、知識や言語としての広がりをみせ、ゆえに測ることができ、もう一方は、知恵としての深まりをみせ、ゆえに測ることができない。これは、英語でいうところのWhatと、Howやwhyの違いがある。ここからわかるのは、未知の事柄のように感じる宇宙は、Whatという形でとらえられ、未来のイメージをもたせてくれる。

対して、既知の事柄のように感じる我は、HowやWhyという形でとらえることになり、現在と過去のイメージをもたせてくれる。そして常に、宇宙の音楽的なすべてのことは、それをとらえた”あとの事柄”が”わたし”にとって重要でとらえた瞬間よりも、むしろ、”あとの事柄”が、わたしにとって、宇宙という音楽的であるすべてのことを量的に広げてくれるものとなる。

対して、わたしという美術的であるすべてのことは、それをとらえる”まえの事柄”が”わたし”にとって重要でとらえる瞬間よりも、むしろ、”まえの事柄”が、わたしにとって、自己という美術的であるすべてのことを質的に深めてくれるものとなる。

代表的なものを挙げると、知識は、”あとの事柄”が重要であり、とらえた瞬間より、あとの復習が大切だとか、知恵は、”まえの事柄”が重要であり、とらえる瞬間より、まえの予習が大事だとかいうことである。
現象としては、私が他者を理解するとき、常に、未来から現在へ、また逆に、私が私を理解するとき、現在から未来へと理解をすることになる。

このとらえる瞬間とは、事象のことを指し示すものとなるとするなら、ベルの不等式というものが、それに似た役割を示してくれるだろう。

ところで、素数というものがあり、ある種のガウス整数によれば、2と5は、素数ではないとされる。というのも、素因数分解が可能だからだ。たとえば、2は、(1+i)(1-i)=2となるし、5は、(1+2i)(1-2i)=5となるからである。ここでいいたいのは、それだけではない。この砕けた素数といわれるものが、4次元立方体における点、各点、頂点、入れ替わるところの点という可能性がでてくるのではないか?ということだ。この2と5の関係を考察しようと調べていたら、ラマヌジャンの公式に行き着いた。


Π(pの2乗+1)
∞(pの2乗-1)=5/2

ーーーーラマヌジャンの公式ーーーーー

ある意味で参考になると思ったが、計算して中身を取り出したら、iの4乗-3iの2乗+1というものがでてきて、この解をi=xとして解くと、±iというものができただけだった。どの道いえるのは、この関節部分にあたる各格子の点は、対称的であるということがいえるというだけである。それは、である/でない、というパラドクスを解決するものになるのかもしれない。

・・・・・・・・・・・・四次元立方体 - Bing images

ということで意味がよくわからなくなったのでここで一旦この話は終わりたいと思う。


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