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3つの幸福の有り様

  「静的幸福/動的幸福のあり方」

幸福にもある程度、種類があるようだ。そのことについて今回お話したいと思う。

    「静的幸福と躍動」

樺沢紫苑さんの本でセロトニン的幸福とオキシトシン的幸福、そしてドーパミン的幸福があった。
セロトニン的幸福とは、ほとんど生理的欲求や生物としての基本中の基本がその幸福だといえる。
例えば、睡眠、食事の摂取、落ち着き、じっとしてられるかどうかでわかるようなことであろう。
また、オキシトシン的幸福は、つながりなどといったもので、例えば、家族で会話する、家族で食事を取る、話し合いをする、ハグをするなどといった躍動を含む。これらを私は静的幸福と呼んでいる。名言としては次のようなものがある。

話すことがあって、話す相手がいる。
話せていることは幸福だ。

私としてはこうしたことは当たり前のように感じるが実は大切なことのように思えてならない。
まるで、エデンの園から追放されたアダムとイブがいた世界のように思えるし、また、シーシポス神話におけるカミュの考え、つまり、シーシポスが神の罰で大きな岩を運ばされる人生を幸福とみなすようなものである。

    「動的幸福と行動」

先ほどのものに対して、こちらは受け入れやすく、また、応用が効くものとなっている。これを動的幸福と呼んでいる。
基本的に土台となるのはセロトニン的幸福(生物的幸福)、オキシトシン的幸福(化学的幸福)が先にあって、これを基盤としてドーパミン的幸福(物理学的幸福)がある。
例えばこのような名言がそれであろう。

小さい夢は見るな。それには人の心を動かす力がないからだ。

ゲーテ格言集

この3つの幸福のあり方がある。
ここで分析してみると、生物的幸福と、化学的幸福、物理的幸福がある。というのは、先ほどの例のように、「話すことがあって、話す相手がいて、話すことができるというのは幸福である」という言葉は、ある意味で生物学と化学の化学反応のようにみえるところが不思議なところである。
また、そこから力を加えて、いくと上の言葉になるから、これまた不思議なことである。
 このように、言葉にはおおよそ3つの言葉が含まれているということである。

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