悲劇の主人公
最近よくスズメが歩き回っているのを目にする。あるいはカラスやトビがすーっと飛んでいるのを目にすることも多い。
そんなとき、何かの事情で自分の気持ちが落ち込んでいたりすると、ああ、きっとあの鳥たちは一片の悩みもなく優雅にきままに飛び回っているのだろうな、などと考えてみたりして感傷的な気持ちになったりすることは誰しもあるだろう。
しかしそんなとき私の脳裏には、私の高校時代の友人が瞬時に蘇り、そして語気を強めて私を論破してくる。
"お前は鳥になりたいのか!?いいんだな?あんな風に骨がスカスカになっても、小も大も垂れ流しになっても!"
何故当時、私がぽつりと呟いた「鳥になれたらいいのに」の一言に対して普段は温厚な彼があれほどまでムキになってまくしたててきたのかは今となってはわからない。実はイライラしていたのかもしれないし、あるいはただなんとなく論理で勝ちたかっただけなのかもしれない。
しかし彼の一言は私に気づきを与えてくれた。一番つらいのは自分ではないのかもしれないと。
人は誰しも、自分自身を悲劇の主人公に仕立てあげたい。自分の置かれている状況が一番つらいし、自分の生きてきた時代が一番きついことをやってきた、そう考えたくなるしそう信じてみたくなる。しかしそれは単なる自分かわいさの表れでしかないのかもしれない。あそこで気持ちよさげに飛び回っている彼らも、彼らなりに生きづらさ、しんどさを抱えながらそれでも日々を生きているのかもしれない。
少し考え方を変えてみよう。お隣さんも、今道ですれ違ったあの人も、みな多かれ少なかれ生きづらさを感じながら生きている。
それならば、少しだけ余裕のあるときは、つらくて助けを求めている人のそばにいってあげよう。逆にしんどくてどうしようもないときは思いきって誰かに頼ってみよう。つらさしんどさは誰しもが抱えているもの、ならばそれを均等に分け合えばいい。
お互いさま
そんな言葉が自然とこぼれる世界
それはもうすでに悲劇ではない。
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