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スナックの追憶

 ええ、そうです。

 今、齢三十になり、ようやく山口百恵の詞の、そのかけらほどの意味を、ほんの少しではありますが、この未熟なあたまで理解ができるようになりました。

 愛される意味、さようならの意味、生きる哀しみ、よろこび。

 鈍いシルバーのマイクの持ち手が、ぬるい、塩気を帯びた汗にじんわりと湿るほど握りしめ、ところどころを心で歌唱するようになった。

 このことこそ、わたしが大人になった、ないし大人になってしまった、証左なのかもしれません。

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 わたしは下の名前を「くるみ」というのですが、生まれてはじめてのスナックも、何の因果か「くるみ」という名の店でした。正確にいえば、漢字で「スナック 胡桃」。店の由来は、特にわかりません。

 ほとんどかけらほどしかない幼児時代の記憶の中で、その店の残像が、今でもわたしの海馬の奥に居座り続けています。

 あれはおそらく、1992年か、その翌年の1993年のことではなかったでしょうか。あのころ、まだ幼女だったわたしは、父と母に連れられ、友人一家との宴会の二次会で、よくその店に足を運びました。

 曖昧な断片をたぐり寄せると、「くるみ」は古い小さなスナックビルの2階の角にある店だったかと思います。黒っぽくて重い扉を押し開けると、目の前には蛍光色のバックライトがぼんやりと灯るカウンターに、背の高い椅子が6席ほどと、右奥に10人くらいが座れるソファ席がありまし た。スツール、ソファともに、気品のあるビロード素材だったかと思います。 

 大人たちが、当時のわたしにとっては悪趣味以外の何物でもなかった酒を愉しむ傍ら、子どもには瓶入りのオレンジジュース(たしかコカ・コーラ社の「HIーCオレンジ」)があてがわれていました。それを片手に、わたしが寝落ちする夜九時ごろまでは、何度かマイクを持たせてもらえていたと記憶しています。

 十八番は、セーラームーンの「ムーンライト伝説」に加えて、大人たちから仕込まれた曲もいくつか。森高千里の「17才」、それから松任谷由美の「真夏の夜の夢」でした。 

 はい、今考えれば、よくもまぁ5歳児にこんな歌をうたわせていたもんだと呆れてなりません。「さよなら、ずっと忘れないわ、今夜の二人のこと」だなんて、女の、男の、人間のなんたるかも知らない、ただの未熟な生命の塊が、一丁前にそう歌うのです。

 ただ、えらくウケは良かった。やんややんやと喝采を浴び、「くるみちゃんはほんとうに、歌が上手ねえ」とマスター(「くるみ」は確かママだけでなく、マスターもいたスナックだった)に褒められれば、悪い気はしませんでした。

 他にもいろいろと歌わせていただきました。大橋純子の「サファリ・ナイト」、中森明菜の「少女A」、両親が洋楽好きでしたからカーペンターズの「イエスタデイ・ワンス・モア」。今、人前で歌うことに抵抗感がないのは、この「くるみ」での夜が原体験となっているからに違いないと思います。

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 ニシタチのどこがお好きですか。

 そう問われれば、おそらくわたしは「天国っぽいところ」と答えるでしょう。無数のスナックビルがぐちゃぐちゃに交わるこの歓楽街には、街中で飲み歩くあらゆる人間の記憶と、感情と、思想が濃縮され、それを焼酎の水割りで還元した「何か」が流れているのです。おまけにその「何か」は、限りなく愉悦に近しい色をしているから、わたしはニシタチで暴れたり、喧嘩をしたり、誰かを殴ったりしている人を見たことがありません。

 人間として生きる上で積み重なった淀みを、酒と笑みで昇華させられるこの場所が、天国以外のなんだと表現すれば良いでしょうか。

 そして、この天国のBGMこそが、酔っぱらいの歌なのです。

 わたしが、今もっぱら歌わせていただくのは山口百恵です。声が合うからとか、ウケが良いからとか、何の高尚なストーリーもない、くだらない理由で歌いはじめた百恵ですが、恥ずかしながら、三十を過ぎてからは、カラオケの 画面でつい歌詞を「読んで」しまうようになりました。

 リズムに合わせて、声高らかに歌って、「気持ちいい」という単純な快楽に浸りたいだけだったのに、阿木燿子の詞にグウと唸るようになってしまいました。

 親が老い、愛する人ができて、見たくないものが見えるようになって、希望ができて、少しずつ変っていくわたしにとっての百恵。

 酒気を帯びた生温い風とネオンの光が、そんなちっぽけ なわたしをも包んで、「上手ねえ」と、許してくれるのです。

(二〇二〇年五月三十一日)

こちらは昨年、宮崎のギャラリー「Sometimes_Miyazaki」さんが主宰して制作したみんなでつくるオンラインギャラリー雑誌「SOMEDAY Magazine」に寄稿した作品です。私の大好きな、宮崎のスナック街・ニシタチと、スナックの思い出を綴らせていただきました。素晴らしい企画に参加できて嬉しいです。ありがとうございました。
https://www.sometimesmiyazaki.link/someday

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