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2024/04/17 BGM: The Beatles - Helter Skelter

今日は休日だった。朝、いつものように図書館に行く。その図書館の前で、ふとこんなことを考えついてしまった。この人生、実にぼくは(自分でもあきれるほど)たくさん本を読んできた。なんでこんなにも大量の本を必要としたのだろうか。考えるに、こんなことはないだろうか。ある意味ではぼくはもうとっくの昔に頭がおかしくなっていて、この社会から単に切り離されないですんでいるというだけなのだ――アホなことを言うな、で終わる話だろうか。でもぼくにとってこれは真剣な話だ。頭がおかしいのだろうか。

大元まで考えを戻していかないといけない。どうやったらぼくたちは正気と狂気の区別を見極められるんだろうか。どうやったらぼくは正気の持ち主なのかどうかわかるんだろう。そして、もしぼくがもう狂っているとしたら、善人になるべく正気(ノーマルさ)を取り戻すことはできるんだろうか。考えていくと、ぼくがこれまで読んできたすばらしい本のことを連想する。ブレット・イーストン・エリス『アメリカン・サイコ』や村上春樹『ノルウェイの森』はまさにそうした問題を提示していたとぼくは読む。

ここでも書いてきたけれど、クラスメイトたちにぼくはずっとアホだバカだ(当時はもっとひどい言葉もあった)と罵られ続けた。わけのわからない本や音楽を好むキモい(という言葉はまだなかったが)やつだと。こんなことを考えていくと、ぼくはある意見を思い出す。悪名高い(が、ぼくの考え方にたしかに影響を及ぼした実にクレバーな)社会学者・宮台真司の意見だ。彼はこの社会を「クソ社会」とまで呼び、社会そのものが病んでいると言い放つ。ぼくたちは自分たちの正気を守らないといけない……あるいは(別の言い方を選ぶなら)ぼくたちに内在する病を見つめ、致命的に狂ったアウトサイダー(犯罪者)にならないようにしないといけない、と。

午後、市役所まで足を運ぶ。Facebookでつながらせてもらっているある方が監修(?)された面白い展示を楽しむためだ。それは「Nakama展」と名付けられていた。過去にぼくは(くどいが)いじめに遭ったので誰も仲間を信頼できず、非常につらい思いをしてきた。でも、いまは仲間がたくさんいる。ネットにもリアルにも。実に皮肉なものだ。

展示を楽しみつつ(20ほどの絵画が展示されていた)、こんな考えに思い至る。これらの絵画はおのおのの創作者のイマジネーションの反映だろう。ある意味ではそうした画家たちのリアリティそのものだ(感覚を駆使して捉えた世界の切り取り、と言うべきか)。イマジネーションのすばらしい動き。こんなふうにして(いや、もちろん失礼なのはわかっているが)ぼくたちは狂気を「昇華」「発火」させることもできるのかと唸った。

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