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2024/01/26 BGM: Fishmans - いかれたBaby

今日は遅番だった。今朝ぼくは、大好きな作家の1人である保坂和志の哲学的なエッセイの集成である『言葉の外へ』という本を読んだ。そして、こんなことを考えた。ぼくも小説の1種として自分のことを書けないだろうか、と。それは不可能でできっこないとわかっているのだけれど、保坂の『プレーンソング』『草の上の朝食』などを読んでいるとそんなことを夢見てしまう。過去、ぼくが30代の頃にぼくは試み・たわむれに小説を書いてみたことがあった。とても安っぽく陳腐で、そして不毛なフィクションだった(リストカットを止められない女の子の話だったことは覚えている)。いま、他のやり方・メソッドで自分の小説を書けないか考えている。

昔々、ぼくは小説家になることにあこがれていた。十代の頃はすでにそんな夢想に浸っていたっけ。でも、まったくもって何ひとつ書けていなかった。自分の下手な小説を書くことにとても恐れを感じていた、というのが遠因かもしれない。自分自身に自尊心・自尊感情を持っていなかったヘタレだったので他人からの正直な批評的な意見(ダメ出し)が怖かったのだと思う。最初のインスピレーションが訪れるのは30代。それまで待たなければならなかった。

その最初の小説から、ぼくは書き続けることを試みたりもした。ロマンスなんて知らないくせに、恋の駆け引き・色恋沙汰を必死で想像して夢想・妄想を紙に書きなぐった(官能小説めいたものも書いてみたりした)。いや、クリエイティブな時間だった。でも、いいものが書けたとは思えない。それはたぶん、そうして書いていてできたものが結局はぼくから見て嘘八百・でたらめでしかないとしか思えなかったからだろう。時間がムダだったかな、とさえ思う。

いま、ぼくは日記を書き続ける日々を送っている。そして哲学的なエッセイにも手を染めた。嘘をつかず、なるだけ正直にぼくの意見をつづることにしている(でも、プライベートすぎると判断したことは隠しているつもりだ)。このなぐり書き・落書きめいた文をなぜ多くの方が読んでくださるのか謎だと思う(と書くともちろん真摯に読んでくださっている方々には失礼なのだけれど……ごめんなさい!)。ぼくはポップに・魅惑的に加工とは思っていない。ハダカの自分自身を晒して、それで居直っているのだった。そこに人は惹かれるのかもしれない。それが人生なのだろう。

今日、職場で契約面談があった。いまを信じられないと思う。というのは過去、ぼくはジョブコーチの制度を利用しようとして会社に持ちかけて、でも上司は保守的・堅実な方だったので首を縦に振って下さらなかったのだ。でも、状況はおだやかに・確実に変わってきている。過去、酒に溺れていて夢も希望も根こそぎ奪い去られていたあの日々を思い出す(完全な負け犬だと自分のことをみなしていたっけ)。でも、世界は変る。ぼくが世界を変えている、と思う。ビッグマウス(大言壮語)かもしれないけれど。


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