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2022/03/05

永井均『存在と時間 哲学探究1』を読む。極めて高度な議論が行われているのでわかりにくいが、永井均が設定している問題が決して現実離れした次元のものではなく、「私が『今・ここ』にいる」という素朴な(?)事実から来るものであることはわかる。裏返せば、その素朴な次元から高度な問いを始めようとしているところが極めて永井均らしい。私が信頼している哲学者は皆、そうして自分の問題を持っている。中島義道、野矢茂樹、古田徹也、小泉義之。私もまた、自分の問題を見つけて見つめるところから始めなければならない。

その後、時間があったのでフェルナンド・ペソア『不安の書』を少し読む。永井均やペソアに倣って、私も自分の人生の後半戦を自分の問題を考えて費やすことができないかと考える。もうあれこれ流行りに乗じるのもみっともない。いつの頃からか私はライトノベルも読まなくなってしまったし、ベストセラーすら興味が失せてしまった。ただ、「自分の問題」がなんなのかわからない。退屈をやりすごすことだろうか。自分の人生に意味があるのかないのか考え抜くことだろうか。私はその「自分の問題」をどうやって見つけるべきなのだろうか。

思い起こせば、私が哲学の本を読んだり英語で日記を書いたりしているのだってひとりで思いついたわけではなかった。人から「発想が哲学的だ」と言われたり、「英語がわかりやすい」と言われたのがきっかけだった。だからひとりであれこれ考えるより人の意見に従う方がいい場合もあるのだ。私がいつも生きる指針にしているフィッシュマンズの歌詞を思い出す。「窓は開けておくんだよ/いい声聞こえそうさ」。外に開かれること。外から届く声にしたがって一度自分というものを捨ててしまうこと、なくしてしまうこと。田中小実昌のエッセイを思い出す。また読んでみようか……。

自分の哲学……もちろんロラン・バルトを引くまでもなく、オリジナリティに過剰にこだわるのは現実的ではない。私が考えていることは先人たちがすでに考えたことをなぞっており、言い換えればある種のクラウドと自分個人はつながっている。ただ、矛盾するが私から生まれるものはそれでも私のかけがえのない問題なのだ。ありふれている、かけがえのない問い。私が問えるのは「私の」問いであり誰かの問いではない以上、この矛盾を生きなくてはならないのは当然かもしれない。ならば、また「コミさんによろしく」というタイトルのエッセイを書いてそんな自分の矛盾を見つめ直してみようか、と思う。

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