見出し画像

マーク・ギル『イングランド・イズ・マイン』

マーク・ギル『イングランド・イズ・マイン』を観る。タイトルを素朴に訳すと「英国はぼくのもの」。何とも「こじらせた」タイトルであることに苦笑が浮かぶ。この映画は泣く子も黙るイギリスの至宝であるロックバンド、ザ・スミスのフロントマンのモリッシーの若き日を描いたものである。モリッシーはその詩才/文才で高く評価されているが、実際にかつては音楽ジャーナリストになろうとせっせと投書を書き続ける一面があったらしい。実際にこの映画を観ていても彼の文学青年ぶりは痛いほど伝わってくる。随所に現れるオスカー・ワイルドの影、そして作品で特権的に名前が出てくるブロンテ姉妹やディケンズなどにそれは現れている。

この映画が面白いなと思ったのは、「懐かしさ」が感じられないことだ。いい意味でも悪い意味でも、である。モリッシーが青春を生きた時代は「鉄の女」サッチャーが政権を握った時代でもあり、彼女の方針で弱肉強食的なネオリベの嵐が英国に吹き荒れた時代でもあった。まだ若いにも関わらず若者は高い失業率の中で苦しめられ、やっとありついた仕事でも辛酸を嘗めなければならない。ましてモリッシーのような理想の高い(悪い意味でも、だが)青年はこんな仕事に一生を捧げるのは真っ平だ、と思ってもおかしくない(ちょうどザ・スミスの曲が放つメッセージのように)。そんなくすぶり続けるモリッシーの姿が丹念に、嫌というほど丁寧に描かれる。

だが、くどいがその描き方に「懐かしさ」はない。普通ならこうした映画はサッチャーの名前くらいは当時を思わせる素材として出すだろう。しかしこの映画はそうした懐古趣味を極力排除し、むしろモリッシーやあの時代の若者たちが生きた時代を今の時代とも繋がりうるものとしてフレッシュに、みずみずしく描こうとしているように思われた。だからよく言えばモリッシーの悩みや怒り、焦燥は普遍的なものとして伝わるのだ。今の私たちにも馴染みのある、誰にも身に覚えがあるだろうアドレッセンス、あるいはモラトリアムとして立ち現れるのだから。そこはこの映画の美質であり、心象風景を繊細に描いている点を買いたいと思った。

悪く言えば、ではそうして今に通じるモラトリアムとしてモリッシーの苦悩が処理されてしまうことで、モリッシーが個人的な実存の問題として抱えていただろう苦悩が見えづらくなり「ありがちな」悩みになってしまうことだと思った。この映画からはモリッシーのトランスセクシュアルな側面が見えてくるように思う。彼が歌う歌は女性の視点から歌われていると思われるし、あるいは彼に近寄り意見するのが主に女性たちであることも見逃せない(モリッシーと絡む男はみんな暴力的にモリッシーを殴るだけだが、女性たちは彼に親しく寄り添い心を開く)。そのあたりが見えづらくなっていないか? これは決して偶然ではないだろう。彼個人の苦悩と、今を生きる若者の普遍的な苦悩。両者が混ざってしまっている印象を受ける。そんなもの大した区別はない、と言われるかもしれないが――。

いや、そこまで大上段に構えなくてもいいのかもしれない。単にこの映画はモリッシーのうだつの上がらない日々を丁寧に描くことに腐心しているせいで、実に平板に展開するものだと言っておけば足りるかなと。その平板さはしかし、私たちのリアルをそのまま映し出したものでもあると思うので悩ましい。私たちが生きる現実は(これもまた知られるように)決して血湧き肉躍るようなスリリングなものではありえない。その退屈で凡庸な――宮台真司に言わせれば「成熟社会」の?――日々ゆえに価値があるとも言える。そうした平板さをどう受け取るかでこの映画の評価は変わってきそうだ。

あとは、この映画からは英国臭さがさほど匂ってこないこともなかなか面白いなと思わされた。随所に現れるオスカー・ワイルドやクラッシュといった名前こそ英国らしいが、しかし臭みがそんなになくツルツルとした喉越しで観られる映画として仕上がっているように思ったのだ。モリッシーは最後の最後、「ジョニー」というギタリストと出会う。その出会いがまた新たな(そして、確実にロック史に残る)「序章」となる。そんなワクワクする予感を指し示すことで閉じられる。逆に言えば、だからその「序章」にまだたどり着かないこの映画はある意味かなり冒険心に満ちた作品でもあるかな、と思ったのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?