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蕎麦と風呂の週末

 ここ数年で一番悲しかったのは、ラーメンで胸焼けするようになったことだ。そのおかげか、高校時代に馬鹿の一つ覚えで通い詰めた横浜家系の店にも久しく顔を出せていないし、何より食欲というかたちで湧き出てくる情熱が鳴りをひそめたように感じる。ただし、量という指標を抜きにすれば、私はいつでも食いしん坊だし、毎食に美なる味を求めていたい。

 「食べたい」に対する躊躇があらわになったのだ。ラーメンにせよ、とんかつにせよ、食べたいと思った瞬間が一番美味しくて、店に入ったときにはもう油のにおいに気後れしている自分がいる。かのラーメン屋においては、一口目すらも濃いと感じてしまうようになった。今となっては、イマジナリーな美味の記憶を辿って思いを馳せることしかできない。

 甘味にしてもそうだ。酔った父が夜更けに買ってくるギラついたコンビニスイーツに心躍らせる日々は戻ってこない。大学の後半にはすでに、生協で衝動的にメロンパンを買うこともなくなり、計画的に水筒に満たされた紅茶と、街のパン屋の惣菜パン2つとが昼餐となった。


 同年代にも差をつけられるような形で嗜好の老いを感じるようになった今、脂っこいものはシュワリとした酒で流すことでしか共に愉しむのは敵わない(とはいえ唐揚げとレモンサワーの組合せは格別だ)。

 そうなると、酒の飲めない昼に食すものと言えば蕎麦だ。長いこと好物として確固たる地位を確立していたが、ここ最近中心メンバーへとのし上がった。

 蕎麦は、徹頭徹尾昼夜問わず美味しい。父に連れられて行った名店の鴨せいろも、旅先で友人と入った鄙びた蕎麦屋のもりそばも、ひとり忙しなく啜った富士そばの紅生姜天そばも、ぜんぶ美味しい。


 分別がある私は今日も蕎麦屋へと向かう。しかしながら、今日という日に限っては少しばかり腕白が先行してしまった。おろしそばに加えて、店名を冠した天丼を頼んでしまったのだ。だってミニサイズと言われたのだもの。お品書きに、メレンゲの天ぷらだと書いてあって珍しかったのだもの。

 やはりというか、腹八分目を少し超え、なんとも言えない膨満感を纏って店を後にした。蕎麦に丼ものをつけては後悔するなんて、まるで父のようだ。母の忠告を守らず、食後に「バカ」と笑われる父はかぎりなく不器用で、かわいいとさえ思う。もう還暦だというのに、どうして頑是ないことをしてしまうのだろうか。いや、人って案外そんなものなのかもしれない。

 父譲りの茶目っ気を発動した私は、黒烏龍茶を片手に銭湯へと向かう。週末は始まったばかりだ。

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