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メメント・ハラス・ハラスメント

 父は言った――握り飯を選ぶとき、ハラスのことを忘れてはならない、と。

 父譲りの食いしん坊で子供の時から損ばかりしている。小学生の時分から、昼餐を調達する際には決まってコンビニエンス・ストアに駆け込んだ。父は当時の男親にしてはかなり料理をする人だったが、何かとコンビニ飯を愛した。

 私が潔癖を感じるほどに均質な三角形の鮭おにぎりを好んで籠に入れようとすると、よく父に却下されたものだ。これでは駄目だと彼は言う。ぴたりと海苔が巻かれた、人間くさいハラスの握り飯こそが良いのだと。

 たしかに、ハラスの旨みというのは他の部位と比べてもたいへんに濃い。ときに暴力的とも取れるほどの強い味が押し寄せてくる。

 そのときの私は芯からの理解はできず、半ば疑ってかかって、ペテンにかけられたような面持ちで、海苔にまで染み入る鮭の脂を堪能していた。


 いつしか私は食というものを偏愛するようになってしまった。この料理にあれを加えたら美味いのではないか。この食材はああやって拵えたらよいのではないか。いくつもの仮説の渦の中で、適したものを掴み取りながら、深海へと誘われていく。

 齢一桁のうちからこの調子だったから、酒を飲みだしてから佳肴を求めるようになるまでの時間差なんてほぼ無いに等しかったし、台所に立つことへの抵抗は皆無であった。

 独りで生活をいとなみ始めてからは、日々倹約に身を傾けながらも、時たまの快楽を忘れることはなかった。私の舌と心は、いつでも美なる味を求めているのだ。


 東京駅から職場のある地方の街へと戻ろうと、駅弁を調達して新幹線へと乗り込もうと構内を彷徨っていた。ところせましと弁当が並ぶなか、輝いて見えたのはやはり鮭ハラス。その一つを手に取り、会計列へと並んだときに、幼き日の父の慣習を思い出した。

 我が愛しきハラスは、弁当の容器に立派な帯をかけて贅沢を謳っている。たしか、あのハラスの握り飯も、均一な三角形のおにぎりよりも倍近い値段をしていたはずだ。

 自らの財布から紙幣が羽ばたいていくのを眺めながら、少しだけ悔いる。また損をしてしまったと。

 今思えば、あれはひどく強引な、「ハラスしか勝たん」の表明であった。私がこれから如何にしたたかに物事をこなせるようになったとしても、他者にあれこれを強いるようにならないことを願うほかないのだろうが。

 未だ乳飲み子ほどに弱い私は、物陰に隠れつつ、美味しいものを狙う。父の子、こそこそ虎視眈々。

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