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うたかたの日

 シャボン玉、やりませんか。

 電話口であなたは、そうおっしゃったんです。敬語で話すような間がらの私たちと、どこかいとけないシャボン玉のイメエジとの隔たりがとても可笑しくって、よろこんで承知してしまいました。

 わけあって社宅からは退いていたから、またあの場所で落ち会うことになるとは思っていませんでした。それにしても、あれはいつのことだったのでしょう。少なくとも、暑さにやられて倒れてしまう前だったのでまだ夏にはなっていないし、わたしたちを散々苦しめた雪はすべて解けきっていたはずです。


 そこであなたが手に抱えていたのは、やけにハイカラなお道具でした。シャボン玉と聞いて、素朴な一本筒に息を吹き込むばかりと思っていましたから、先っちょがいくつかに分かれているストローを携えてきたことに驚きました。

 わたしたちの年ごろになると、童心にかえるなんて言いまわしをよく耳にしますが、正直なところ、あまりしっくり来なくて。たいへん内気な子どもでしたし、何せひ弱な体質でしたから、周りのものがみな怖くて純粋な愉しみだけを蒐めて思い出とすることはかないません。心のうちに浮かぶいくつかの美しい風景さえも、何かから逃げようとする慰みから生まれ出たものでした。


 とくに心躍る道理もなかったけれど、あなたのかわいらしさに釣られて、臆することなく息を吹き入れてしまいます。

 シャボンの膜はゆっくりと膨らみはじめ、吹き口で玉が連なり合って出ていきます。いびつな分子のような形をしたシャボンなんとかは、生ぬるい風に持ち上げられて宿舎の二階くらいまで浮かびます。少しのあいだ、曇り空の下を漂いかけて、自分の重さに耐えきれずにぽとりと、アスファルトに打ちつける形で消えてしまいました。

 水あぶくはすぐになくなってしまうのに、シャボンはほんのわずかだけ、したたかでありました。


 向きなおるとあなたは、わたしよりもはるかに強く息を吹き込んで、たくさんの玉を宙へと浮かべていました。ひとつひとつのシャボンの玉が勢いよく噴き出して、空へと飛んでいきます。薄日が雲間から差すと、その一瞬を待ち侘びていたかのように虹色に輝いて、気がつくとわたしはその玉々をすっかり見失っていました。

 そのときのあなたは、何かが消えてしまうことをちっとも恐れていないように見えましたし、また新しく作り出すことをためらっていないようでした。とりわけ呑気者というわけでもないのに、いやいや土地に根ざしてやって、全体をほどよく諦めていらっしゃったのでしょう。


 ごめんなさい、ふたつほど嘘をつきました。わたしには、分子のことも虹のことも分かりません。賢しらな比喩を申し上げてしまいました。どこかから借りてきたようなことばばかりを並べて。

 偽ることなく喩えるなら、紫陽花でしょうか。雨上がりの陽に照らされた、まだ濡れている紫陽花。花だけでは説明がつかない色を無数に宿している感じがします。

 下を向いて歩いていると、道端の花がよく見えるんです。たまに空を見上げてみると、それもそれで綺麗だとは思います。今度上を向いたときには、またご一緒させてください。

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