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地獄

用事のない駅で降りたのは、動悸と吐き気に襲われて乗っていられなくなったからだ。それから1年半以上経って、また戻ることになった。

復職とは案外あっさり決まるものなのだなと思った。これが失敗するか成功するかが個人的には大事なところで、正直どちらに転んでもいいと思っている。通勤して、ある程度多数の人間とコミュニケーション取って、働く。そういった「一般的な働き方」が出来るかどうか知りたいだけなのだ。
復職を選んだのは、転職より再発リスクが低いと思ったから、以外の理由はない。失敗してもすぐ忘れるだろうと思っている。多分そういう人たちだ。成功したら「継続」の目標にシフトする。

1年半以上、自分はどうしてただろう、と復職が決まって少し考えた。

うつ病になって、ほとんどの時間は何も出来ていない。台所でぺたんと座って髪の毛を千切っていた時間が一番長いんじゃないかと思う。ほんとにハゲなくてよかった。自分の意思によって体は動かせると思っていたけど、どうやらそういう訳でもないらしい。時間はあっという間に過ぎて、そのうちどうでもよくなった。時間があろうが無かろうが、体は動かせないし、薬を飲まないと眠れない。使えないものに対して関心など持たない。

体も頭も働かない木偶の棒が座っている。ただ死ぬのを待っているような気持ちだった。生きているとも思っていなかった。いる、というだけだ。そして、「生かす」ことの出来ない自分が、次第に煩わしいものになっていく。結婚してなかったらもっと死ぬことを考えていたと思う。今も「ギリギリ死ななかっただけ」だし、「周りにたまたま生かされた」と思っている。ほんの少し運が良かっただけ。

地獄というのは業火で焼かれ、全身がただれたまま馬鹿でかい鍋に浸けられるようなものかと思っていた。僕が入った地獄はもっと柔らかくて何もないところだった。このくらいであれば、出口さえ見つかれば何とかなるのではと思える。しかし、それは時間と共に拡張して、一生出口にたどり着けない。誰かがそう言った訳ではないけど、そんな気がする所にずっといた。今もいる。

「唯ぼんやりとした不安」が分かるなどと言えないが、それは餌になると数ヶ月して分かった。手を放すべきものだと認知するまでに結構な時間が掛かった。
皮膚疾患、聴覚過敏、胃痛、頭痛は決まり事のように繰り返し体を回った。

去年の今頃、母親が亡くなった。2021年は9月下旬をピークにして、そこから数ヶ月の記憶はひどく曖昧ではっきりとしない。
僕の知る人間の中で、何よりも人を想う人だったし人格者だった。「愛しています。また一緒に暮らしましょう」と手紙に書いて棺に入れた。
それを書いてから急いで死ぬ必要もないような気がしたし、自分のうつ病がいよいよどうでもいいことになっていった。

母が亡くなって駆け付けてくれた人が、母との思い出を話してくれた。
僕も随分と小さい頃の話だったが、聞いているうちに断片的に思い出が蘇ってきた。通った道や、使っていた物、母親を待っていた時間のことを思い出した。はじめて家族以外の人の前で声を出して泣いた。
その話をしてくれた人は今年になってから亡くなったと、数ヶ月前に聞かされた。

主治医は、自分に合う薬になかなか当たらなかったことを理由にあげて「長引いてごめんね」と言った。

でも、うつ病になったことも、自分にそういう資質があるということも、もう切り離せない。まだまだ付き合って行かなきゃならないし、クリアになった訳では全然ない。でも、先生ありがとね。

次に用事のない駅で降りたら、きっと笑うやろな。ここまで来たらどっちでもいいのよ、ほんとに。生きてて、ひとつでも分かることがあるならそれでいいです。


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