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夏の総復習

■恋なんて愚かな気の迷いで、夏のせいにすることでしかこの胸の痛みを言い訳できなくて、けれども実は自分の気持ちに嘘なんてつきたくなくて、俺はただお前が欲しかっただけなのに、あの衝撃的な告白のせいで裏切られた気持ちになったんだ

前略 お元気ですか。
俺はコロナウイルスにかかってしまって、最低な夏休みを過ごしていました。何もすることが無いから、家ではずっと昔のことに思いを馳せています。俺はふと、君と過ごした“あの一日”のことを思い出しました。あの一日をきっかけに、俺の心は一週間ほど乱されました。いや正しくは、乱されている自分に溺れていただけかもしれない。それでも、少しだけ俺は“恋”という奇妙な心の動きに、触れられたような気がしたのです。プレパラートのように薄くて脆いそれを、太陽にかざしたら、仄かに紅くなったのです。君は、幻だったのでしょうか。もうお目にかかることは無いでしょうが、せっかく思い出したのだから、最初で最後の“復習”をしたいと思います。

友人Mから連絡が来たのもいつ頃だったか、今ではもう覚えていません。でも、クラスでも何かと行動を共にすることが多かった彼から、突然連絡が来たのです。来週末は空いているか、というような内容だった覚えがあります。季節は間違いなく、夏でした。俺は突然の誘いに少し困惑したけれど、「空いてるよ」と返しました。窓の外に横たわる夜闇を見ながら、俺は返信を待っていました。彼が俺のことを誘ってくるのが珍しかったので、良い想像も悪い想像も同程度できました。半々くらいでしたが、それは「予感」と言うのが相応しいような、何か匂いのするものでした。返信がきました。

『女子二人と俺で、男子一人足りないんだけど来る?』といったものでした。

俺は二つ返事で「行く!」と返信していました。しかし、俺は何故かそれを送った後に、酷く後悔に襲われたのです。本当にどうしてかは分かりません。俺には「未来予知」のような第六感が備わっていたのかもしれません。その時嗅ぎとった「予感」が具体的にどんな事情によって自分にもたらされるのかは分からなかったにしても。

すぐに既読がついて、俺は送信取消する機会を失ってしまいました。相手から、『良かった! マジ神だわ、ありがと!!』と返信。未だかつてないスピード感で交わされた約束に、俺は何も言えなくなってしまいました。

理由は分からないけれど、当日、俺と友人は地元からだいぶ離れたラウンドワンで遊ぶことになりました。女の子は二人のうちの一方が来れなくなったらしく、結局は友人と「職場が同じ」だと聞かされた君の自宅から近いラウンドワンに向かったのです。

ラウンドワンまでは最寄りの駅からシャトルバスが出ているということで、集合は駅でしたね。夏の暑さをなるだけ避けたくて、駅舎の屋根の下で、友人と俺は君を待ちました。やけに広い駅を見て、「広い割にボロいな」などと終始俺が毒を吐いていたら、友人が何故か少しだけ不機嫌になりました。

君が来るまで、俺は本当に不安でした。その頃、俺は本ばかり読んでいて女の子と喋っていなかったから、着いた瞬間に覗いた、「今すぐ帰りたい」という臆病な気持ちを必死で押し込んだのです。リュックサックの収納には、『雑談力』という本を持参していました。俺は自分が決して面白い人間ではないことを自覚していたから、藁にもすがる思いでそれを読んでいたのです。俺たちが着いてから10分ほどで、君はやって来ました。随分と露出が多い服で、俺は内心ドキッとしました。

俺と友人Mは、朝の腹ごしらえを済ましていなかったので、ひとまず近くのドトールコーヒーに寄ることになりました。俺はハムチーズトーストを頼んだような気がします。会ったばかりの君の前でゆっくりと朝食をとるのは気恥ずかしかったので、本来は味わいたいそれを喉の奥に押し込んで、飲みたくもないブラックの珈琲で流し込みました。俺はトイレに席を立ち、大きな鏡の前で、今朝セットした髪型が崩れていないか念入りに確認をしました。そんな事をしている自分にはちょっとだけ恋をする才能があるんじゃないかと思ったけど、結局それって自分のことが一番好きってことやんけ、と自分に突っ込んだらとうとう救われないような気持ちになってきて、泣きそうな顔のフツメンが鏡の前で「お前は誰だ?」なんて問い掛けてました。これでゲシュタルト崩壊できたら、どれだけ楽だったか。

再び意識が戻ってくると、俺はもう既にバスの座席に座らされていました。もう戻れないのだと思って、少し悲しくなりました。空には雨がぱらついていて、でもそんなのは屋内で遊べることが売りのラウンドワンにとって無害なのだから、俺からしたら憎たらしくて仕方なかったです。もういっそ、俺を逃れようのない未来へと運んでいるこの乗り物が、『バスガス爆発』してしまえばどんなに楽しいだろうと思いました。何も持たない俺がおちゃらけた様子でロデオを乗り回すよりも、それは何倍も楽しいことのように思えました。俺は気がつけば、死んだような顔で呪文を唱えるように、『バスガス爆発』と口々に呟いていました。その様子を不思議そうに見ていた君は大笑いして、そんな君をガリガリに痩せた老人が迷惑そうに見ました。老人の頭蓋骨は、数回、ボウリングの球で殴打されたように凹んでいました。俺は想像しました。お爺さんは何を血迷ったのか分からないけれど、球を床に叩きつけるように投げて、それがモンスターストライクみたいに壁に当たっては跳ね返って、その軌道にあったお爺さんの頭を凹ませたのだと。俺はその日初めて笑うことが出来ました。その段になって、自分が今の今まで極度の緊張状態にあったのだと気が付きました。会ってから一時間ほどが経とうとしているそのタイミングで、「初めまして、クイルです」と無駄にイケボで手を差し出したら、今度は自分が期待した通りに君を笑わせることができました。トークに力なんて別に必要ないんだな、と俺は少しホッとしました。

ラウンドワンに着くと、早速受付をしました。この日の我々の目的はボウリングではなく、スポッチャの方でしたね。俺は少なからず驚きました。女の子の方からスポッチャに誘ってくるのを珍しく思ったのです。それは自分の中でのいわゆる“女の子像”が中学時代で止まってしまっていて、アプデされてこなかったことが原因とも思われました。

たくさんのスポーツを通して、俺と君は短時間で仲良くなりました。ただ、不思議だったのが、友人Mがあまり楽しそうじゃないことでした。楽しんでいるのかもしれないけれど、ふとした瞬間に“心ここに在らず”といった気配が顔を出すのです。俺はトイレの中で、立ちションをしながら聞きました。

「お前、ちゃんと楽しんでる? 元はと言えば、お前から誘ってきてるんだからね」

『あ、うん。いやまぁ、楽しいんだけど。俺さ、あの子に興味ないんだよね。あの子が女子校の友達連れてくるって言ってたから今日楽しみにしてただけで』

ふーん、と言いながら、俺は心の中で彼の頭上に雷神が訪れるのを祈ったものです。小便小僧の姿勢のままで、雷に打たれてほしいと思いました。俺は今日をどれほど頑張っても、彼が職場で築いた彼女との関係性を越えられるわけがない。たとえ彼が彼女のことを何とも思っていなくても、俺が自分の気持ちに正直になっても、結局は空っぽの人数合わせに過ぎない。派手に動き回ったせいで、今朝必死にしたヘアセットは、見るも無惨な状態に。俺は舌打ちをして、トイレを出ました。

君はスポーティな格好をしていたから、汗が流れているのも俺の目には何故か色っぽく映りました。少し我々は疲れてしまって、昼過ぎ、カラオケに入りましたね。俺は運動には苦手意識があったけれど、歌には苦手意識が無かったから、むしろチャンスが巡ってきたという感じでした。BUMP OF CHICKENの『天体観測』Saucy Dogの『シンデレラボーイ』を歌ったら、君たちは大きな拍手をしてくれました。凄く嬉しかった覚えがあります。でも、友人が『トイレに行く』と言って部屋を出ていき、俺と君が二人きりになると、君は隠していた“秘密”を告白してきましたね。出来ることなら、聞きたくなかった。けれども、知ってしまったから。俺は自分の気持ちを代弁させるように、歌を歌ったのです。

君と友人は、『同じ職場』などではなかったんだね。インターネットの通話アプリで知り合って、インスタを交換して、何回か交際を前提に会ったこともあったって。君は一時、友人に恋愛感情を向けたけど、彼にそういう気持ちは無さそうだったんだって。君はネットから始まる“恋”も悪いことじゃないと思ってるとかごちゃごちゃ言ってたけど、いやさ、何の話だよって感じだったよ。

そんな話を一方的にされて、俺は心のシャッターを半分ほど閉ざし始めていた。隠されていた真実を赤裸々に告白されたからといって、さっきまでの楽しかった一瞬一瞬が全て裏返って偽りになるわけでは当然無いし、だからと言って目の前の女も、彼女から向けられる好意を“利用して”別の女と知り合おうとした友人も、数分前までのように手放しに信頼することは当然不可能になった。今夜ワンチャンあるか、とか考えていた馬鹿な脳味噌は急に冷静になって、そのワンチャンのために下ろしてきた金をいかに使わずに家まで帰れるかと、セコい計算をし始めていた。この瞬間鞄から『雑談力』と銘打たれた本をテーブルの上に出して、目の前の女を完全に興醒めさせることだって出来た。けれど俺は臆病者で、そしてとことん卑怯だった。何食わぬ顔でデンモクを操作して、back numberの『怪盗』を次の曲に入れた。

何も知らない友人Mが、アホみたいな顔で部屋に入ってきて、曲選に対して一言二言茶化してきた。俺は何の反応も示さずに、その曲を歌い上げた。改めて友人のマッシュルームカットを見てみると、マジで性欲が強そうで、俺は感心して「おぉ……」と変な声を漏らしてしまった。彼は『何だよ』と言いながら、亀頭みたいな前髪を櫛でとかした。

結局その日、別れ際に俺はその女と連絡先を交換した。俺と友人は近くの居酒屋で夕飯を食って帰ることにした。居酒屋で『お酒は飲まれますか?』と聞かれ、「はい」と頷けば押し切れそうな雰囲気ではあったものの、真面目だった俺は首を振った。

俺は居酒屋の店内で、交換したてホヤホヤの、あのどこか憎めない女のインスタを見ていた。まず意外だったのは、その女が年下だったということだ。そして次に意外だったのが、彼女の通う女子高が、俺の通っていた市内でもべらぼうに偏差値の低い高校よりも馬鹿校だったことだ。俺は出来れば歳上の賢い女と付き合いたいと思っていたので、その真逆のような彼女のことが気になっている理由が分からなかった。

今朝、俺は友人が職場ではどんな様子であるか、と彼女に聞いて、初っ端から地雷を踏んでいた。でも、それは俺が悪いのではなくて、こんなしょうもない嘘をついた友人が一番悪いに決まっていた。あの発言をした瞬間、場が凍りついたのを感じて、恐怖に近い感情を覚えた。思い出すだけで虫唾が走るようだった。俺は何かの社会実験にでも参加させられていたのだろうか。無性に腹が立ってしまって、3000円分くらい飯を食った。

帰り道、変にパカパカするマンホールがあって、月まで蹴り飛ばしてやろうかと思った。あまりに白い壁面が続く道だったので、バンクシーの模倣をして落書きでもしてやろうかと思った。自分でも意味が分からないくらいイライラしていて、久々に指をポキポキと鳴らしてしまった。

インスタを彼女と交換して最初の一週間くらいは、相談に乗ったり、メッセージのやり取りや電話も頻繁にしていたが、自然に俺が返信を返すのも面倒になって、放置するようになった。気がつくとフォローは解除されていて、そこでちゃんと幻滅した。今となっては、あれが恋だったのかよく分からない。夏がそろそろ終わろうとしてるけど、俺は今年も可愛い女の子と祭りに行く夢を叶えられませんでした。Tinderでも入れてヤリモク女と一戦交えようかとも思ったけど、どうせ援デリのしょーもねぇ業者しかいないんでやめときます。結局俺はプライドが高いから、マッチングアプリも使うことなく、自分で見定めた女性を抱きたいんだと思います(とか言ってるから付き合えない)。キラキラしてると思いきや、ドロドロした感情も渦巻いてるような、そんな本物の恋がしてみたいものです。 草々

■あの頃は、読書感想文すら書けないただのガキだった

あの頃は、読書感想文すら書けないただのガキだった。それなのに、どうしてこんなにも本を読むようになってしまったのだろう。自分の中で、間違いなく何かが変わってしまったに違いない。全ては、あの夏のせいだったのだろうか。浮き具を抱えた人びとが海水浴をするような感覚で、俺もただ泳いでいるのだ、誰も知らない活字の海を。

言葉の濁流の中に身を置くことが、いつからか心地よくなっていた。青白い月が照らす夜、気付けば俺は、小説に読み耽っている。思えば、自主的に本を読むようになったのは高校生からだった。とは言っても、高校に入ってから1年数ヶ月ほどは、仲の良い友達と休み時間の大半を共にしていたし、本なんて一冊も学校に持ってきてはいなかった。しかし、そんな友達を差し置いて本を読むようになったのだ。俺は、何も持ち合わせていない自分をずっと恥じていた。だから、やっと“読書”という趣味を見つけて自分を好きになれたのに、周囲の人間は口を揃えて言った。

『あいつも変わっちまったな』
『前まで面白かったのにね』
『賢ぶってるよな、何か』

俺は別に、そんなつもりは無かったのだ。
賢いと思われたいだとか、そんな浅はかで醜い魂胆など無かった。俺はただ、何かに熱中できる自分を見つけたかっただけ。それが歓迎されないならば、その程度の友達だったのだろうと、そんなことを思ってしまった。本の中身を確かめることもせず、表面的なイメージで「賢ぶってる」などと一蹴してしまうような奴に俺はなりたくないと思った。目の前で何が起こっていても、俺は本の世界だけで息をするようになっていた。気付けば、友達は数える程しかいなくなっていたけど、本だけは俺を飽きさせなかったし、呆れさせなかった。

もっと年を遡ってみる。
幼少期、俺はほとんど本を読まない子供だった。母親に『青い鳥文庫』『角川つばさ文庫』『集英社みらい文庫』などを薦められたが、全くもって興味が湧いてこなかった。

“子供騙し”という感じがして、なんとなく嫌だったのだ。実際読んでみたら違ったのかもしれないけど、その頃の俺は食べず嫌いならぬ、読まず嫌いをしていた。

絵本の類も、ほとんど読まなかった。
ただ、『はらぺこあおむし』は凄く好きで、何度も読み返していた思い出がある。

また、小学2年生の時に教科書で読んだ、アーノルド・ローベル『ふたりはともだち』所収『お手紙』にとても心打たれ、アーノルド・ローベルのがまがえるくんとかえるくんが出てくる本を、母親に揃えてもらった覚えがある。俺はこの時、一度熱心に本を読んだのだった。

それから少しすると、また本は読まなくなっていた。ただ、“読書感想文”を書かなければならないのも最後となった小学6年生の夏、俺は例年よりも意気込んでいた。自己最高の読書感想文を残すためには、良い本を選書する必要があると、小さな脳味噌で考えた。父親に俺は相談して、とある場所に連れて行ってもらったのだった。

暑い夏、ひりつくような日光を反射する、橙色と青の看板。自動ドアの隙間に身体を滑り込ませると、冷房でキンキンに冷えた店内が、無数の本と共に俺を迎え入れてくれた。
そこは、ブックオフである。

俺は特にこれと言って目当ての本も無かったので、宝物を探すように本棚を眺めた。何時間でもそうしていられると思った。そんな中、視界の隅で“輝いた本”があった。誇張なしに、その本はピカっと光ったのだった。俺に見つけてもらうのを待っていたかのようだった。

俺は視線をさっと滑らせて、その本を視認した。その本は、名前を『怪人二十面相』と言った。“江戸川乱歩”という何処かで聞き覚えのある作家が書いた本だった。いかにも怪しげで、何かを企んでいるような悪い顔をした男が、こちらを覗いていた。正直、こうなってしまっては逃げられないと思った。しかも、その隣には黒で統一された背表紙がびっしりと並んでいたのだ。俺は衝撃を受けてしまった。それらはシリーズものだったのだ。
少年探偵団、妖怪博士、青銅の魔人、地底の魔術王、夜光人間、鉄人Q……。
そのどれもが、ワクワクするようなタイトルだ。俺は気付けば、指をさしていた。
「これにする!」
微笑む父親から右手に小銭を数枚握らされ、俺はその本を左手に掴むと、レジへと駆け出していった。思えば、あの瞬間が“読書の原体験”だったような気がする。

俺がその夏、自己最高の読書感想文を残せたか、定かでない。ただ、そこから数ヶ月は江戸川乱歩の“少年探偵シリーズ”にハマり、学校でもよく読んでいた気がする。父親ともブックオフを巡り、自宅の本棚に、シリーズの3分の1くらいは揃えた気がするけども、それも途中で読まなくなったのを覚えている。

それから更に、月日は経った。
これは確か、中一の夏。
何気なく書店の店頭に平積みされていたのが気になって手に取った、住野よるのデビュー作『君の膵臓をたべたい』。これが読んでみたら、未だかつてないほど心にぶっ刺さってしまって、俺は読書というものへのイメージを見つめ直したのだった。“読書”は、高尚な趣味などではなく、日々に彩りを与えるものなのだと。あの一文を読んだから、少しだけ空が身近に思えたり、道端の花の名前を知りたいと思えたり、今日は少しだけ昨日よりも目が冴えてるかなって思える、そんな繊細な感覚。上手く言葉にできてる気はいつだってしない。けれども、別にそれでいい。本を読む人は分かってくれると思うから。分かってくれとは言わないし、強制もしない。だけど、これだけは言わせてほしい。一冊本を読んだら、絶対に世界は昨日と違って見えるよ。

高校3年生にもなると、俺は年間で50冊を読むようになっていた。自分では全然、凄いと思っていなかった。上を見上げたら、際限が無かった。でも、俺のいた学校ではそんなに本を読む生徒が中々いなかったらしく、図書室の司書さんにはよく我儘を聞いてもらった。司書さんは、俺が頼んだ本を1週間ほどで図書室に入荷してくださった。だから俺は、生きてこられた。本を読まなかったら、俺は多分死んでいた。

理解のない奴は、後ろ指をさして言った。
俺は「本を読んで、賢ぶっている」と。
そんな底の浅い悪意を向けられる度に、アイデンティティが揺らいだ、けれど。
図書室の司書さんだけは、俺のことを肯定してくれた。晴れの日も、嵐の日も、彼は変わらずそこで待っていた。本を借りに来る誰かを。
色々な話をする中で、どれだけの時間を尽くしても、この世の本の全てを読むことはできないのだと悟った。俺は悔しくて、地団駄を踏んだ。そんな俺のことを、彼は微笑んで見ていた。

正直、馬鹿の相手をしている時間は無かった。
仕方ないではないか、俺は本を愛してしまったのだから。生きる意味を、そこに見出してしまったのだから。息を吸うように、あるいは吐き出すように、俺は本を日々読んでいる。食事や、入浴や、排泄や、洗濯と同じくらい、俺にとって読書は大切だ。それに文句をつけてくる奴は、本当に残念だけれど、情緒も知性も乏しいと言わざるを得ない。それでもまだ不安になる事はあるから、夏休み明けにでも司書さんに会いに行こう。目いっぱい語りたい本の内容や、気になったフレーズをメモしておいて。彼はまた、笑ってくれるだろうか。

読書なんて好きにならなきゃ良かった、とか思わないし思えないから、俺は今日もまた、活字の海に潜っていく。

■幻想風景~空蝉~

なんとなく、夏だろうと思った。

入道雲が、空に向かってにゅっと伸びていた。遠くには山脈が連なっている、田舎の田んぼ道だった。僕は何故かパンツ一丁でスクールバッグを背負っていて、自転車に跨りたいのに、尻がスイカのように赤くまぁるく腫れ上がっているので、汗をだらだら垂らしながら自転車を押していた。武井壮みたいに筋肉質になった僕が、向日葵に挟まれた道を歩いてゆく。後ろからチャリに乗って、中学時代好きだった子が、笑いながら話しかけてくる。

『髪の毛、リーゼントにしたんだ』

見ると、自分は髪型をリーゼントにしていた。しかし、触れるべきはそこじゃないだろうと笑ってしまう。ツッコミどころしかない、おちゃらけた自分がそこにはいた。好きな子がポケットから紙切れを取り出し、僕に渡してくる。僕がその紙を開く時、恥ずかしそうにポニーテールの後ろ髪を触る。

『16時、いつもの駄菓子屋で。
今日はアレとアレ、奢ってね』

紙にはそう書かれていた。
ATMにされてるやんけ。まぁでも、仕方ないよね。好きな女の子が喜ぶんだったら、そんな出費は痛くないよね。僕は悲しげな顔で笑う。

女の子が、またチャリを漕ぎ出して、僕を追い抜いていく。陽炎の坂道、彼女はびゅんびゅんと風を切って、遠くへ行ってしまった。夕暮れが差し迫る中、その帰り道は果てしなく続いている。カカシに被せられていた麦わら帽子が、風に攫われて消え入った。

夢から覚めたら、熱を出していた。
どおりで、変な夢だと思った。

【予告】

10月中旬に、メンバーシップを開設します。
毎週、日記1本、ショートショート1本を投稿します(予定)。また、月に1回のラジオ投稿、そしてメンバーシップ限定の小説、過去作品のスピンオフなども出す予定です。
ご期待ください!!
𓈒𓂂⋆͛📢⋆💥

【完】

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