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「新潮45のルポタージュシリーズ」が好きだ。

人の心を震わす事件が起きたとき、民放テレビなので近所の人などがインタビューにマイクを差し出されて出すコメントが「普通の人のようでしたよ」なんて加害者の人物像を表面的にサラッと流し我々の背筋を凍らす。

「普通」ってそんなに異常と隣り合わせなのか。
確かにそうである。
ただ、事件にならない異常と、事件になる異常のうち、恐るべきは事件になる方なのだから、報道側はしっかりと伝えてほしい。
誰しも(ここで否定する人は多く居るだろう)何らかの異常性は持ち合わせている。
固執しすぎる程度の問題?
方向性の問題?
例えば、「推し」のことであっても犯罪に向かわなくとも、問題性を自分の中で収め、他者から見れば異常であっても、法に触れなければ、それは趣味の範囲内であるが、ストーカーは別である。「推し」と「ストーカー」の境目は何処から生じたのだろうか。

異常な家庭環境で育った人は、大人になっても異常な環境を作り出す可能性があり、実は過去を辿ればその人はかつて加害者だったかもしれないのだ。
「推し」と「ストーカー」の違いを生むのは、そんな生まれ育った環境なのかもしれない。

自分は研究者でもなく、犯罪現場の人間でもないので、想像するしかないが、その現場をただ興味を煽って路傍の人にマイクを傾ける民放のアナウンサーのような人でなく、きちんと自分の足で記録を辿り、加害者とも向き合い、被害者家族ともインタビューを試み、加害者の過去を総ざらえしてその人なりから事件の真相を探ろうとするルポタージュというものにとても関心がある。
「新潮45 ルポタージュシリーズ」は廃刊(休刊)となってしまっているが、是非とも復活してほしいものだ。

つい最近、読む順番が違えど「殺人者はそこにいる―逃げ切れない狂気、非情の13事件 」(新潮文庫)を読み終えた。全巻読破。
加害者の浅はかな行動と被害者の不条理で残酷な最期。そこに人生の意味はない。人は、人生に意味を求めたがるが、この本を読んで被害者の方々の無慈悲な亡くなり方に意味があったと言えるのだろうか。
それぞれの「生」には意味はあった。だが、、、

無論、どこにも正解はないのだ。

小説ではなく、事実に即したルポタージュだからこそ重みが違う。実際に幾人かの人が亡くなり、その周りの関係者の方々も悲しみに暮れているわけだから。

仮に「新潮45」じゃなくとも日本からドキュメンタリーやルポタージュという事実を覆う化けの皮を剥がして見せてくれる骨太の記者たちが居なくならないことを願う。自分は実際に記事が書けなく、何の手助けができなくても、もし映画なり本なりを出してくれれば、見ること買うことで応援ができるだろう。

権力に跪く国にはなってほしくないものだ。

ではでは。

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