開発のdecolonisation

「どう謙虚を装っても権威の臭いの漂う既成の意味世界に、私自身もすっかりとらわれているからだ。それがどんなにささいな規模であれ、風景の反逆を描かず、気づかないふりをするのは、つまるところ、書き手が世界に反逆したくないからなのだ。意味を壊すのが怖いからだ。古くさい意味世界を守りたいのである。」(辺見庸「反逆する風景」)

1、IDSのこと

8ヶ月のイギリスでの大学院生活と同じだけの時間をケニアで過ごした頃、延期になっていた卒業式が行われるというのでイギリスに戻ってきた。

束の間の夏を目一杯に楽しむかのような強い日差し、穏やかに変化し続けるブライトンの群青の海、芝生の上のまったりとした空気、店の装飾で色鮮やかな小道、フラットメイトが毎日のように飲んでいたオーツ - 何ということのない日常に少しだけ、でも確実に、郷愁の念を駆り立てるものが散りばめられていた。

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IDSに入学する数年前、援助とビジネスの狭間にある空白の概念について考え続けていた時、DIFIDとSDCの提唱する「Making Markets Work for the Poor (M4P)」のアプローチに魅せられ、検証したいのはこれだと思った。

2020年、安易な私は開発学で世界一という大学院に行けば、何か答えが得られるのかもしれないと思ったけれど、先代の研究者が何年もかけてまだ答えの出ていないものを、一年間で見つけられるはずもなかった。

そして論文を読めば読むほど、綺麗に論理を組み立てタームペーパーで高得点を得れば得るほど、既成の意味世界を壊すことができないこの開発学の世界に悲観的になっていった。

1990年代後半から2000年代にかけ凄まじい経済成長を遂げた多くのアフリカ諸国では、統計上pro-poor growthは起こっていなかったし、Minskyの美しい経済理論、Financial Instability Hypothesis を適用し現在のカンボジアのマイクロファイナンス市場を読み解くと、金融危機の目前だった。

理論から離れて現実に目を向けても、コロナによる分断の加速、一過性のブームとインパクトウォッシング、人々の努力を水の泡に帰すような暴力、ポピュリズムの蔓延。

修士論文では脆弱性の高い国を題材に、プライベートセクターは、紛争の要因と言われるgreedとgrievanceの助長を防ぐのか、Statekholder capitalismの文脈の中で問うた。

言葉を選ばずにいうと、ひどく自意識的だった。ビジネスの無力さに自信を喪失していて、どうしても希望を見出したかったのだ。ケースを選ぶとき、心の中にはスーチーの時代に歓喜し経済発展に目を輝かせていた、同世代のミャンマーの人たちの顔があった。金融都市としての地位と誇りを失い、「あなたはもうここから離れた方が良い」と言う香港の人たちの声があった。

終着点の見えないまま筆をとり、80近い先行研究を読み進め、とうとう、リサーチプロポーザルに添えていた逃げの注釈は、最後まで頭から消えることはなかった。「紛争や平和構築のプロセスは本質的に政治的なものである」

どんなに文字を重ねても、矛盾を孕まないように意識すればするほど、別の既成の意味世界に塗り替えられていく。東北で、インドで、ミャンマーで、香港で、希望を見出し身を置いてきたプライベートセクターは、どこまでも無力だった。

この開発の世界で生きるにあたりいかにcritical hopeを持ち続けることが難しいか、身をもって知る。一年は答えを出すには、とても短い修士生活だった。

2、ケニアのこと

フーコーは「全ての言説はシステムの産出物にすぎない」といい、宮台は「終わりなき世界」では、「秩序」から「未来」へ、そして「自己」の時代へと変遷した結果、「人々は崇高な物語であるほど、世界ではなく自意識に帰属させるようになった」と言った。「大きな物語が死に、小さい物語が濫立する」ポストモダンと同義であると、論じた。

思えばケニアでのこの8ヶ月、修士課程では遂げられなかった、この無慈悲な言説の行き着く先を探してばかりいた気がする。

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煌びやかなデパートや各国のレストランが立ち並ぶナイロビは想像以上に都会だったけれど、二時間も車で走れば野生のキリンやシマウマがいる広大なサバンナがあり、一時間も飛べば白浜の輝く美しいインド洋が広がる。休日にオープンカフェや友人宅のテラスでバーベキューをして過ごす時間は癒しそのもので、美しい自然と豊かな時間が身近にあるケニアで暮らせることに、とてつもなく幸福を感じる。

仕事をする環境としても刺激的だ。フィンテックに代表されるようにビジネスが活発で、リープフロッグとまで言える技術は実際そこまでは多くはないけれど、うまくいくビジネスは社会の課題解決にダイレクトに結びついていて、革新的だし学ぶことが多い。

資本主義という巨大な仕組みにどう人の心を乗せるか。キャリアの根底にはいつもこの問いがあった。意思のない機能としての市場を、よりinclusiveなものにすること、それが今の仕事を選んだ時に立てた、国家・市場・市民の関係性における、国家の役割の仮説だった。

そのツールとしての、経済特区の設立、企業がテイクオフするための側面支援、人材育成、インパクト投資、金融包摂の促進。これまで机上のものでしかなかった産業政策のダイナミズムも、数字が語るストーリーも、手触り感を持って感じられるようになったことは、この国のこの仕事を選んで最も良かったことの一つだと思う。

この業界で仕事をするにあたって、現場が近いかどうかが頻繁に議論に上がるけれど、尊敬する人たちが、援助の現場に届ける缶詰を机の上に置いていたように、隅々まで足を運び多様な人との縁を丁寧に紡いでいたように、誰であろうと信頼関係を築き相手の心を動かしていたように、政府職員、起業家や企業人、路面店で働く人、スラムに暮らす人、開発機関職員、様々な人たちの物語と交わるよう心がける。

現場感とは本当に自分の想像力と行動次第で、日常の全てが自分にとっての現場になる。

ハランベ(少しずつ貢献しあって分け合う)という精神文化を自然に体現する人たちをたくさん見て、日本にも通じるものを感じる。道路建設のために突然ブルドーザーで住居や商店が潰されても、翌朝には道路脇に戻ってくる人々の反骨精神と逞しさに触れ、明日も生きようと思う。「明日は今日よりも良くなる」と信じて前を向く人々の活気に触れ、その一助になれないかと、恥ずかしげもなく青臭いことを考える。

現場で人の物語に触れると、強烈な酩酊感に襲われる。たまらなくこの国が好きだなあと思う。

そしてその現場では、どの物事にも両面があるように、悲しいストーリーなどいくらでも見聞きする。

オフィスへの通勤時、毎日家の前の通りで障害者や子連れの物乞いに声をかけられる。そこで集まったお金の8割は、元締めを通してタンザニアへ行くという。イギリスではホームレスに頻繁にお金を渡していたのにここで一度も渡したことがないのは、ほとんどのお金が彼らの手元には残らないことが容易に想像できるからなのか、この国の途方もない問題から目を背けようとしているのか、まだ言語化できずにいる。

友人の家で仲良くなった彼の子どもは怪我で学校へ行けていないという。コロナ禍でも15人以上が月3000円ほどの家賃で2部屋に暮らし、200人住む長屋でお手洗いは4つのみ。そんな生活の中でも、少し前まで狭い部屋で軟禁されていた知的障害の少年を救出して家族に迎え入れたんだ、と友人は言う。洗濯物が干されている長屋の廊下でアジア人を見て騒ぐ子どもたちと戯れていると、友人は言った。「今は可愛いけどね。あと10年もすれば、目の前の多くの子どもたちが薬や暴力に手を染める。それが現実だよ」

たった1ヶ月の間に3人の知り合いが拳銃強盗や恐喝事件に巻きこまれ、治安の良い通りでひったくりに合う地元の女性を目撃するくらい、犯罪に溢れている。統計局のレポートでは昨年ナイロビで81,000件以上の犯罪があったというから、一日に220件ほど起きている計算になる。2020年から16%以上件数が増加したらしいが、実際にはそれ以上だろう。生きるためにそうせざるを得ない人がいるのだ。

「昔は治せなくて死んでいく人をたくさん見てきた。今は薬があり治せる。だから自分がやらないわけにはいかんでしょう」と、スラムや孤児院で無償でHIVの治療を施す医師は言う。ケニアのHIVの感染率は成年で4%近くだが、USAIDによればセックスワーカーのHIV感染率は30%近い。その多くが女性だ。また今まではあまり聞かなかったような病名を耳にし、1、2ヶ月に一度は誰かの親族や友人の訃報を聞く。これまでいたどこの国よりも、死がずっと身近なものに感じるようになる。立派なアパートに暮らし綺麗なスーパーへ行く自分の生活圏が、余計に死への歪さを際立たせる。

マサイマラの土壁の家々に隣接する青空市場で、蝿の舞う中、手持ち無沙汰に地べたに座っていた、20人ほどの老若男女たちの表情が忘れられない。昨年末にマサイマラのガイドをしてくれたその人は、「あなたたちは今年二組目のお客さんだよ。コロナで誰もこなかったから、マサイの村の人たちに食べ物を分けてもらっていたんだ。助け合いだよ」と言った。だから彼らからお土産を買ってあげてほしいんだよね、と暗に伝えられた気がして、欲しくなかったビーズのブレスレットを買った。

ディアニのリゾートに行った時に島の船着場まで連れて行ってくれたドライバーが言う。「この近くの村出身でもうドライバーを20年ほどやっている。でも毎日お客さんを連れてきているけど、実は一度も島の中には入ったことがないんだ。」別の友人は言う。「飛行機ってどんなところなの?食事は出るの?想像つかないんだよね、国内線にすら一度も乗ったことがないから。」いつか飛行機に乗って日本へ行きたいというその友人に、そうだね、いつか案内するよ、と言う自分の言葉が、白々しく宙を舞う。

選挙に出馬した友人は言った。「あれだけサポーターを得ていても、負けたんだ。ライバルがお金を配って票を買ったからね。でも自分は同じことをしたくなかった。汚職に手を染めたら、彼らと同じになってしまうから。だからまた5年後に挑戦するよ。」ケニアの腐敗認識指数は世界128位。別の友人は「誰が勝っても一緒だよ。私達の生活は良くならないから」と吐き捨てるように言った。

国境近くの名前も知らない村で、言葉を交わした少年が走って追いかけてきた。お金でもせびられるのかと思ったら、「来年ナイロビの高校へ行くのに、スポンサーを知らないか」と言う。立ち止まって何十分も一緒に考えたけれど、何も現実的なアイデアが浮かばなかった。「Okay, you can go…」と悲壮な目で、しかし力強く刺すように彼は言う。あなたたちに頼っても意味ないよね、という少年の心の声が帰り道を追いかけてくるような気がした。

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開発学の勉強も開発機関で働くことも、目の前の一人を助ける何の役にも立たない。倫理や人権など、私たち第三者が議論するものとはあまりにかけ離れていて、ここにあるのは構造的にそうなのだという事実のみだ。
毎日絶望を感じては、この国に偶然関わった一人の人として、この国で偶然出会った人たちに少しでも貢献できるようになろうと必死で勉強をする。

そして問いかける。この絶望を開発に従事する動機にはしてはいないか。自分が開発の仕事をする意義を、自分の存在意義を、他人の物語、つまり世の中の問題に依拠してはいないか、と。

フーコーは「全ての言説はシステムの産出物にすぎない」と言い、宮台は「人々は崇高な物語であるほど、世界ではなく自意識に帰属させるようになった」と言った。 
そしてルフマンは、生物学の用語「Autopoiesis (self-creation)」と言う概念を用いて、社会というシステムを、起点も終点もなく、自己言及的で常に発展していくものとして定義した。

この無慈悲な言説を昇華させる方法を探していた時、長年感じていた開発という名の下の介入のおこがましさの正体を、ようやく言語化できるようになった。
不自然に整合された開発のナラティブに、「古くさい意味世界を守ろうとする」自分自身の開発への動機に、ずっと不信感があったのだ。

数々の絶望を忘れまいと、ことあるごとに反芻する。開発アクターとしてのビジネスへの情熱を絶やすことももうないだろう。
けれど、日常的に出会う人々の物語の中から、自分の意味仕立てにとって都合の悪い風景を果たして排除してはいないか、心地よいストーリーに仕上げて矛盾や混乱を排除していないかと、自問する。

システムから逃れられることができないならば、せめてその変化し続けるシステムの中で、過度に悲観するでもなく楽観するでもなく、自意識から切り離し、淡々と不整合な世界の物語を書き続けよう、と思う。

開発のDecolonizationとはそういうことだったのだと、今のところ解釈している。

「不整合のない風景は、時を費やせば費やすほど、そして整合して見えれば見えるほど、嘘である。ひどい嘘である。」(辺見庸「反逆する風景」)

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