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太宰治『たずねびと』太宰作品感想14/31

最近は専ら、太宰の戦中の作品を追いかけているのだが、『たずねびと』は初めて読んだときから大変に印象に残っていた作品で、いつか本作について何か書くことができればと考えていたので、今日はこの場をお借りして、いくつかのことについて書きたい。

「…どうせ死ぬのならば、故郷で死んだほうがめんどうが無くてよいと思い、私は妻と五歳の女の子と二歳の男の子を連れて甲府を出発し、その日のうちに上野から青森に向う急行列車に乗り込むつもりであった…」

太宰治個人に限らず、日本人全体が死に晒されていた戦争末期の時代。太宰は東京から妻の国元である甲府へ一度逃げたのだが、そこでも空襲を受け、ついに故郷の青森へ向かうことにした。しかし、太宰は空襲の難から逃げるために故郷の片田舎へと向かうことを決めたわけではない。「…どうせ死ぬのならば、故郷で…」。死に行く老人が晩年に発するようなこんなセリフが、強いリアリティを持った恐ろしい時代であった。

青森へ向かう太宰一家の手元には、食べ物が全くと言って良いほど無かった。少し持ってきたおにぎりのコメは納豆のように糸を引き、パンも表面がヌラヌラしていて食べられたものではない。小さい2歳のどもにも、やせ細った妻では乳をやることができない。食べられるものと言えば、炒り豆少しばかりであった。

「おい、戦争がもっと苛烈になって来て、にぎりめし一つを奪い合いしなければ生きてゆけないようになったら、おれはもう、生きるのをやめるよ。にぎりめし争奪戦参加の権利は放棄するつもりだからね。気の毒だが、お前もその時には子供と一緒に死ぬる覚悟をきめるんだね。それがもう、いまでは、おれの唯一の、せめてものプライドなんだから。」とかねて妻に向って宣言していたのですが、「その時」がいま来たように思われました。

上記の文章は、何となく人間の尊厳を感じるようで印象に残っている。しかし、太宰一家はギリギリのタイミングで毎度救われた。道中、乳を痩せた妻の代わりにやってくれる主婦もあった。桃とトマトを授けてくれるおかみさんもいた。「…思えば、つまらねえ三十七年間であった…」と太宰が死ぬことを仙台駅で考えていた頃に、蒸しパンと赤飯と卵を授けてくれた女神のようなお嬢さんもいた。全ての出会いが奇跡なのだが、ここまで続くということは、戦中の国内において人々の助け合い(最近の言葉で言えば「共助」か)が多少なりとも存在していたという事実を示しているのかもしれない。


太宰は最後、食べ物を分け与えてくれたお嬢さんに「東北文学」という雑誌の場を借りてメッセージを発する。

「お嬢さん。あの時は、たすかりました。あの時の乞食は、私です。」

このメッセージが届いたがどうか、僕は知らない。当時そのお嬢さんは二十歳前後に見えたというから、もうすぐ百歳になるといったところだろうか。未だご存命かもしれない。太宰のメッセージがお嬢さんの下に届いたのであれば嬉しい。

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