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太宰治『ア、秋』 太宰の31作品感想 3/31

10月中、毎日投稿することに決めた太宰治の作品感想。三回目は、今の季節にぴったりの作品、『ア、秋』をご紹介しよう。

唐突だが、僕は秋は無いというような気がしている。僕の父は、義理の父親(僕の祖父)が、「青はあるけど、緑はありますかね?」という理系学者の癖して文学者のような詩的な言語表現を、よく思い出しては会話の中に滑りこませてくる。緑も極まると青々として来てなんだかわかるような気もするが、四季の一つがないとなると、共感してくれる人も少ないだろう。

太宰は、秋についてこのように言っている。

「秋は、ずるい悪魔だ。夏のうちに全部、身支度をととのえて、せせら笑ってしゃがんでいる。僕くらいの炯眼の詩人になると、それを見破ることができる。家の者が、夏をよろこび海へ行こうか、山へ行こうかなど、はしゃいで言っているのを見ると、ふびんに思う。もう秋が夏と一緒に忍び込んで来ているのに。秋は、根強い曲者くせものである。」

秋は、いつしか独りでにやって来るという。だから、炯眼の詩人でもない限り、来たことさえ気が付かないのだという。僕のように鈍感が極まると、秋がないというところまでいってしまう。寒い日は、冬のセンチメントな匂いを感じる。秋を象徴する(らしい)金木犀の香りも、冷たい風に運ばれて来れば、僕にとっては冬の匂いだ。

読者の皆様は、「秋の海水浴場に行ってみたことがありますか?」。まるで自分の言葉のように、太宰の問いを皆様に投げかけてみたい。夏にはあんなに騒がしかった海水浴場も、秋には寂しい顔を見せる。夏の終わりの虚しさは、こだまするヒグラシの鳴き声などに感ずべきものではなく、海水浴場の静かなさざ波の中に感ずべきものであるという自説は、先ほど確立されたばかりである。

芸術家ハ、イツモ、弱者ノ友デアッタ筈はずナノニ。

秋についての言葉を連ねた太宰のメモ書きの中に、ちっとも秋と関係を持たないような上の言葉も記述されている。これは、反権力といった分かりやすい種類の言葉ではないだろう。秋の実在を信じて疑わぬところが、弱者の永遠の友、太宰という人間の優しさであるのかもしれない。

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