「自分らしさ」を言い訳に使ってはいけない
「自分らしさ」という言葉を、自分自身の正当化のために都合よく使ってはいないだろうか?
こんにちは。合同会社QUESTのスティーブンです。
冒頭からだいぶ青臭いことを書いてしまいましたが、一応これには訳があります。
以前に書いた記事でも触れましたが、私はこの10月に転職をしました。
そして新しいコミュニティに入るときに避けては通れないのは「自己紹介」という儀式です。
私は元々自分というものを表現することが極端に苦手であり、そのぶん「自分とはどういう人間なのだろうか?」ということに対して人一倍考えてきたように思います。
たとえば以前にご紹介したjobgramや、有名な才能診断ツールであるストレングスファインダーやMBTI診断などは一通り受けたことがありますし、姓名診断、星座占いなどのエビデンス的にアレな感じのものなどは昔から結構気にするタイプでした。(Twitterの〇〇ったー的なやつもタイムラインに流れてきたら未だにやってしまいがちです。面白いですもんね)
まぁ占い的なものはまだしも、統計学的にエビデンスがある診断については信頼に足るツールであると思いますし、私自身も直近では転職活動中の自己PRや強み弱みを考える際に大いに活用させていただきました。
それらの診断結果から見た私という人間を端的に表現すると、
「情報を仕入れることが大好きで、自分が興味を持ったものに対しての行動力は人一倍。一方、興味のない物事に対しては全くパフォーマンスが発揮できない」
という感じです。典型的なオタクですね。
まぁオタクかどうかはさておき、こうした診断で出た結果は自分自身の認識とはさほどズレてはおらず、「おっしゃるとおりでございます」という感じで別段いいとも悪いとも思いはしません。だって事実ですし。
私が新しく入った会社では、そういった診断結果を社員間で共有するという試みをしております。それによって適材適所を実現したいということもありますが、お互いが相手がどのような人間であるかを理解して尊重し合おうという理念から出た試みであると理解しています。
これ自体はよい取り組みだと思いますし、そういった情報を開示し合うということはコミュニケーションを円滑にすると思います。
一方で、「私は〇〇という人間です」ということを「つまり私が✕✕をできなくても当たり前ですよね?そこのところわかってますよね??」というエクスキューズとして相手に忖度を強要するために使ってはいないだろうか?ということを自省するきっかけにもなりました。
人間は社会的動物である以上、自分の意に反することもしなくてはならない場面は必ず訪れるわけであり、その時に「自分らしさ」という言葉を都合よく使って避けてしまってはいけない、ということを思うようになり、今回の記事を書いてみました。
私たちQUESTは「多くの人がイキイキと活躍できる社会」を目指すために設立された会社です。これはなにもお客様だけではなく、QUESTのメンバー全員がそうでありたいという思いが込められています。
その上で、自分がやりたいことだけをやって生きていくことが難しいのであれば、自分がやりたくないこと・苦手なことに対してどのように折り合いをつけて向き合っていくかということを一緒に考えていく、ということも私たちQUESTの命題の一つでもあるのではないか、と私は思うのです。
合同会社QUEST スティーブン
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