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「正義の戦争」論 あらためて考えてみる…

今年前半の記事2本、昨年のもの1本と、最後はこの11月の記事ですが、教会内の「正戦論(Just War Theory)」についての議論は続いていますので(無論、ウクライナでも、中東でも、ミャンマーでも、……戦闘自体が終わりませんので)、あらためて紹介したいと思います。
昨年のウクライナへのロシア侵略が始まって以降、カトリック教会内でも戦争という暴力行為自体に対する倫理課題が議論の俎上に挙げられ、異なる立場から論じられています(↑Annette JonesによるPixabayからの画像)。

「プーチンの戦争と教皇フランシスコ」コモンウィール 2022年3月16日

ぐっと遡りますが、2022年のロシアの侵攻開始翌月、3月の記事からはじめます。この記事の主旨は、副題にあるように「ウクライナへの攻撃はバチカンに幾多の課題を課す」です。
バチカンにとって一番の困難さは、その中立性の維持に腐心せざるを得ないところだと、記事は述べます。宗教団体である以上、特定の側を支持しないようにするのが通常のスタンスで、教皇は「暴力を支持するものは神の名を冒涜する」といった批判を繰り返し、「ロシア」「プーチン」には当初、ほとんど言及しませんでしたし、双方の戦士した兵士の母親のために祈る、といった行動など、たびたび非難を浴びました。なぜなら、この戦争は、「明らかに侵略する側と攻撃される側が存在する」からです。
『社会教説綱要』という教会の教えには、「民族には『基本的生存権』と『独自の言語と文化に対する権利』があり、それを通じて民族は基本的な精神的『主権』を表現し、促進することができる」とあるにも関わらず、それを守ろうとしないバチカンに国際社会は苛立っています。中国の人権問題に対する反応の鈍さ、また冷戦時代の東欧諸国カトリックを共産党から十分に守らなかったことなど、バチカン外交の「価値低下」が見られる、とこの記事は断じます。

「『正義の戦争』の可能性」 ラクロワ 2023年5月13日

これは、戦争から1年経ったところでの、倫理学者、トビアス・ウィンライト教授による考察です(23年2月のオックスフォード大ラス・カサス研究所でのオンライン講演より)。基本的に彼は、積極的平和主義=非暴力の価値を認めつつ、「武力を行使することが道徳的に正しいこともあると考え続けています。それは良いことではないかもしれませんが、正しいことです」という立場です。倫理学者として、現実に起きている事象を考察する上で、以下の彼の思考は、動かしがたい一つの出発点と思います。

自衛戦争の理解の仕方

「ローマ教皇や他の人々が非暴力を強調し、武力行使を非難するたびに、同胞を守るために武器を取ったウクライナの兵士や市民はどのように感じるのだろうかと、私はしばしば考えてきました。もし私がそのような人の立場だったら、侵略を撃退するために武力を行使したからといって、『道徳的に失敗した』と感じるでしょうか?」
別の倫理学者、ディビッド・デコッセも、「圧倒的な不利な状況の中で、ウクライナ人は反撃した」のであり、「キリスト教の非暴力を支持する正義の戦争理論の否定をめぐるカトリック内の現在の議論にとって、自衛戦争に従事するという彼らの決断はどのような意味を持つのか?」という問いに正面から向き合う必要性を訴えています。
さらに、ジェラルド・J・ベイヤーは、自分はタカ派なわけではないが、「この戦争は国と国民を消滅させるものであり、放っておけばロシアの膨張主義が続く」と警告し、「戦争を憎み、殺傷力の行使に踏み切る前に、他のあらゆる合理的な手段を尽くすべきだと信じているとしながらも、悪があまりにも大きく、武力以外のいかなる手段も大規模な残虐行為を防ぐことができない場合が、まれではあるが存在する」と確信しています。
多くの倫理学者や枢機卿などの議論も参照しながら、結論としてウィンライトは、戦争と平和の倫理に関し、「ウクライナ戦争が転換点」になると述べています。「教会は依然として非暴力を優先する必要があり」、「正義の戦争理論の欠点とその誤用の危険性を認識しながらも」、「極限状態における戦争の正当性に関するカトリックの教えの深い刷新、再構築、拡大も必要」としています。そのためには、「非暴力の支持者と正義の戦争論者は補完的な形で共に働くことができる」と勧めています。
これに参考になるのが、湾岸戦争の時に米国司教団が発表した司牧書簡『平和の挑戦』で、そこで司教たちは「正義の戦争はどこへ行ったのか?と問いかけ」、「カトリックの教えは非暴力と正義の戦争の要素の複合体として発展してきた」ことを振り返っています。

教皇のコメントの変化

こうしたウクライナでの戦争についての考察の進展の中、当初、徹底的にロシア非難を避け、ウクライナ擁護に偏らない「中立」を維持し、「いかなる戦争も、いかなる武力衝突も、常にすべての敗北に終わる」と述べていた教皇も、「ウクライナ人の武力抵抗の道徳的正当性を認めるようになった」のです。
「自衛は合法であるばかりでなく、祖国に対する愛の表現でもある」、「勇気をもって祖国を守るために、あなた方は将来のために培った夢の代わりに武器に手をかけなければならなかった」と励ましつつ、「自衛の場合であっても、平和が究極の目標であることを忘れないでください」と付け加えます。教会の、「正当な戦争に関する伝統的な道徳的基準−−正当な理由、正しい意図、比例性、差別など−−は、正当な防衛対侵略や無差別殺戮に関するフランシスコ法王の発言の多くの根拠となって」いるわけです。

正戦論の議論の中で

そもそも、「正戦論」とは、「戦争を始めるのはどういう条件で正当化されるか(jus ad bellum)と、始まった戦争がどのように遂行されるべきか(jus in bello)の両方を制限し、制約することを目的としています」。
確かに正戦論の中には、「一つは『精力的な戦争擁護』であり、もう一つはより『制限的』あるいは『厳格』な正戦論と原則の使用を提唱する」二つの流れがあり、「ここ数十年の間にカトリック界で戦争と平和の倫理について真の議論」の中では、これらが論じられたのであり、「正戦論と平和主義の間ではなかった」と述べています。つまり、この二つは矛盾するものでも、二者択一のものでもない、ということでしょう。
さらに、上の「戦争前」と「戦争中」の基準に加え、「戦争終結のための基準(jus post bellum)・倫理」が欠如していることも記事中、指摘されています。

「よい戦争などない」 ラクロワ 2023年5月20日

二つ目の記事も、上と同じラス・カサス研究所で23年2月に行われたオンライ講演会からのものです。
神学者のウィリアム・T・カバノー教授は、「よい戦争」という物語が複雑になり疑問を抱かせる、と主張します。要因は3点です。①ウクライナ侵攻に対する欧米の対応が、他の地域の紛争と比較して不釣り合いであること、②ウクライナ・ナショナリズムが台頭していること、③「よい戦争」など存在しないということ。したがって、正義の戦争の基準が満たされても、「暴力は常に最後の手段であり、失敗の認識です。非暴力は最初の手段であり、クリスチャンのデフォルトの立場であるべき」との立場です。
そこでカバノー教授は、非暴力のウクライナにおける成功例を並べます。カタラン国際平和研究所による2022年10月の報告書によると、「21年2月から6月までの期間だけで235件の非暴力抵抗行為が確認されています。そのような行為には、ロシア兵に穀物を売ることを拒否する農民、ロシアの部署に参加することを拒否する消防士、地元の役人や学校長を非暴力で保護すること、代替政府を設立すること、反戦メッセージでロシアの市民社会を巻き込むことなどが含まれます。報告書は、非暴力的抵抗が市民を保護し、ロシア当局の軍事的・政治的目標を妨げつつ、地域統治と地域社会の抵抗を強化し、戦争に関するロシアの物語を弱体化させたことを明らかにしました」
その結論は、「非暴力抵抗は、ウクライナを守るためのもっともな戦略であるだけでなく、紛争の両側における回心への道でもあります」と結論づけています。

所感

本記事を読んでまず思うのは、ロシア軍に対し、果たして本当に非暴力の抵抗が成功しているのか、という疑問。現実問題として、武力による反転攻勢がある程度成功している、という報道があるので、全くの無抵抗であれば、もはや地球上からウクライナは消滅していたかもしれない、という深刻な憂慮は拭いきれません。加えて、疑問を抱かせる3点の理由の中、欧米の反攻が不均衡であること、暴力が最後の手段であることは、正戦論の戦闘前の基準(jus ad bellum)のうちの二つ。暴力行使を判断する基準として正戦論以外の枠組はなかなか見当たらない、というのはつねなることです。本記事は筆者にあまり説得力がありません。
加えて、これは日本語だけの問題ではないのですが、jus を「正義」と訳すと、たしかに正義の戦争というのは、言い過ぎな気がします。しかしラテン語の語感として、jusには「基準」という意味も成り立つと習いました。「これが正義だ、と思っている」というよりは、避けがたい暴力を判断せざるを得なくなるときの「基準」を提示している、と理解するほうが本来の考え方に近いのでは、と感じています。

「教皇にとっての戦争の霧」ラクロワ 2023年11月30日

さて、最近出た記事に入ります。
これは、教会内の非暴力、積極的平和主義の人たちが引用する、教皇ヨハネ23世の回勅『地上に平和』の教皇ヨハネ23世と、現在のフランシスコの状況が比較されています。
ヨハネ23世の時代、「第二次世界大戦から学んだ教訓と、核時代における全面戦争は考えられないという考え方の一致」があったため、彼は発言力があり、それは世界によく受け入れられた、ということです。
しかし昨年のロシアのウクライナ信仰とことしのハマスによるイスラエルへの攻撃が状況を一変させ、教皇庁の外交は影響力を全く発揮できず、これらの事態に効果的に対応できていないと指摘しています。
歴史的には、カトリック教会がもっていた反ユダヤ主義、正教会に対する攻撃といった過去があるため、これら二つの戦争にもともと対処しづらいことも、記事は指摘しています。
それにしても、教会はこの二事象について「麻痺している」という、理由は三つ。①教皇が組織的に動かない仕方を好むので、そのことばが権威をもった形で国際社会に訴えない、また同じ理由から、教会高位聖職者が平気で教皇と異なる意見を述べる、②教会がグローバル化し、多様となったため、方向性を失っている、③これまでの戦争に関する倫理(自衛の権利、民間人を守る義務……)とジェンダー、セクシャリティ、諸宗教対話、半植民地主義といった新たな問いの数々とどう相互作用するか、が挙げられています。
ヨハネ・パウロ2世、ベネディクト16世、フランシスコと、それぞれイスラム教徒の対話を続けてきましたが、ハマスはそれら「イスラム教とはまったく異なるもの」であり、第二バチカン公会議以降、教皇庁が対話を続けてきたイスラエルとは「異なる種類のイスラエル」を扱わなければならない、としています。「ウクライナやイスラエルの戦争は、地政学的にローマに近く、神学的にもカトリックにとって非常に敏感な国々です。このようなことが、『戦争の霧』をいつも以上に濃くしている」とのこと。
はじめに戻りますが、1960年代、ヨハネ23世の冷戦期と比較して、いま教皇・教皇庁ができることに著しい困難さがある、と解説する記事です。

ちなみに「正戦論」とは…

長くなりますが、ご参考まで。正戦論の最近の一つの定義です(Richard B. Miller, “War in the Twentieth Century: Sources in Theological Ethics,”より)。二つに分けて考えます。これらの基準を「どう当てはめるか(全部?一部?、厳密さ?)」についても、学者によって違いがあります。
◎jus ad bellum=戦争開始を正当化する条件
 ▼正当な理由 (戦争は無実の人々、共同体の未来、共通善、ないしは基本的人権を守るためにのみ認められる。侵略や復讐のための戦争は決して正当化されない)
 ▼正当な権威 (戦争は正当な公権力をもった人によってしか始められない。戦争が共通善を守るためのものであるとするならば、その責務を負う、たとえば政治家のような人間にとっての義務となる。この場合、その政治権力が正当に得られたものであることが前提となる)
 ▼正しい意図 (戦争の意図は自己防衛に限られる。ここでいう意図とは心理的な状態ではなく、戦争の目的そのものである。敵を完全に掌握するために武力が使われることは認められない)
 ▼最後の手段 (為政者は他の非暴力的手段が尽きた後でのみ武力は行使しうる。他に手段が残っているのであればそれを使用する道徳的義務がある)
 ▼比較優位な正義 (どんな国も「絶対的正義」をもち得ない。変化する状況下で正義をはかる場合、相対的なものとなる)
 ▼均衡性 (戦争前の均衡性は、戦争にかかるであろう費用と、それによって守られるものの価値との比較が正当であるかどうか)
 ▼合理的成功期待 (上の均衡性の検討の結果、費用をかけ、危険を冒す以上、相当の成功の見込みが必須。無鉄砲に武力を行使しないため)
◎jus in bello=戦時下暴力の条件
 ▼差別性 (武力は戦闘員にのみ「差別的に」向けられるべきであり、一般市民への意図的攻撃を禁じている。非戦闘員への攻撃免除とも呼ばれる。これには重要な2つの要素がある。1)戦闘員・非戦闘員の区別。戦闘員とは、他の社会を脅かす戦争に対し物質的に協力している人々であり、兵士だけでなく軍事産業労働者も含まれる。2)「意図的」と「予測されたが意図的でない」行為の結果。市民を殺害しても、本来の意図は他の正当な目的があればこの攻撃は基準を満たすことになる。つまり、「予測されたが意図的でない」人々の死は第1の基準を満たす一方、次の「均衡性」の基準によって道徳的に評価される)
 ▼均衡性 (戦時下において「均衡性」は、守るべきものの価値と、意図されていない損害との比較。この損害の方が大きすぎる場合、意図されていないにせよ道徳的に認められない)


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