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静止的(static)な認識と動的(dynamic)な認識

 人が時間の中で生きてるということはどういうことか。この問いは哲学方面でよくありそうな感じだが、もっと感覚的で日常的な意味あいで、それは静止的staticではなく動的dynamicなものである、ということだ。しかし我々人間は社会的な存在であり、生まれてすぐに言葉を覚えることを要求され、その他いろんなものを学習させられるが、それらは基本言葉で構成される。つまり「社会」とは言葉で構成されている。言葉を用いることのない虫とかネズミにも整備された道路や上下水道、各種お店は存在するが、それは彼らに恩恵を与えるためにそこにあるのではない。人に飼われるペットはそれらの清潔で便利な環境の恩恵を受けるが、それは飼い主が言葉を扱う存在であって初めて可能なことである。
 その意味で社会は言葉によって構成されている。その社会を前提に生きる我々も言語的存在であるが、言葉は静止的staticな性質を色濃く持つ。そのstaticなものでもって我々は本来動的dynamicなものを表現することが普通だ。そのため我々は言葉で表して初めて自分の(社会的)存在意義を確かめたりする。ついでに言えばそういう傾向は「初めに言葉ありき」(ヨハネ福音書)という発想を伝統的に持つ西洋のほうが強く、「道(真理)が言葉にできるとしたらそれは本当の道ではない」(老子)という東洋的発想のほうがまだこの呪縛から脱せられる可能性が少しは残されていると私は考える。この呪縛というのは本来動的であるはずの我々の存在が静止的な認識で縛られていること。

 具体的な例としては、我々は自分の姿を写真で写して、それを吟味するということを日常的に繰り返すし、その姿が自分であることを疑わないが、初めて写真で自分の姿を見た100年ちょっと前の人は皆強い違和感を覚えたという。そういう違和感は我々が人生の最初に自分の映像を見た時に誰でも持つと思う。大人になってもちょくちょくそういう違和感を持たされるので「自分は写真写りが悪い」という感想を持ちがちだが、やがてあきらめて「自分はこんなもんだ」と自己認識を修正しながら生きていく。しかし人間は本来、昼間は常に動いて暮らしていて写真みたいに静止的なことのほうが珍しいと思う。だから写真よりも実際のほうが魅力的な姿の人は多い。でもとにかく運転免許証はじめ公的に公開された顔が自分のいちばん表の顔だとあきらめながら認識して我々は生きている。

 姿ぐらいならいいが、人生はどうか。今自分はこうだ、ということを言葉で書き表して自分の人生を振り返ると皆たいてがっかりすると思う。それで自分は才能とか運とか境遇とかに恵まれなかったなあ、とあきらめることを覚えながら生きていくもんだと思う。人生を静止的、「点」みたいなもので表現するのと動的、「ベクトル」みたいなもので表現するのではどちらがより本質をあらわしているかというと後者だと思う。つまりある点から別の点に常に動いているのが人生の本質だとしたら、もとの点がどれぐらいみじめでつまらない場所であってもあんまり関係ないように思う。逆にそういうdynamicな性質を重要視しないで見る人生は常につまらないものであるように思う。我々の存在は動的であるのにそれを表現するには静止的な言葉で表現するしかないという矛盾。
 我々の存在が動くためには感動とか気持ちを動かすものに対してオープンであることが大事だと思う。それは昨日した自己定義が陳腐なものになるという事態が毎日のように起きることを許容すること。自分が昨日言ったことと矛盾する事態を受け入れること。我々の社会は進歩し続けていて、それは演繹法的な発想で可能になっているが、人生はそれとは逆で、帰納法的に認識し続けるしかない。科学といったら演繹法的なものなので、帰納法的なものを軽視する傾向が、この進歩の時代に顕著である。そのあらわれの一つが大学で理系の学部の文系の学部に対する優越的立場で、人文系の学部の不要論もここ数十年の傾向である。ここに現代という進歩の時代の落とし穴があり、それが社会全体の大問題になる日はまだ遠いかもしれないが、個人レベルではすでに色んな問題を生んでいると思う。最初はそれは「おかしな奴がいる」という個別の問題として軽視されるだけだろうが、いずれはそうでは済まされない時というのが来ないわけにはいかないと思う。

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