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奈義町にて

奈義町現代美術館で議論した、感動の行方についての議論。
空間芸術は、その床や音響の響きの特異さに違った感動を引き起こすけれど、それは建築と芸術作品の垣根の特定が難しく、いったいどれに私たちは感動したのだろうかという問いは建築を考えるうえで重要なのではないだろうかというお話があった。奈義町にあった芸術作品はどれも巨大で、ある意味で作品を通して特異な領域を展開させているように感じた。感情を揺さぶる作品が収められている美術館がとるべき建築物のスタンスはどのようなものがいいだろうか。個々人で意見の分かれるようないい議論ができるのではないかと感じていい問題提起だと思った。



こうした議論は拡大して遺跡や様式建築にもいえそうだと思う。あるいは日常に潜む感動とかにも。

 ノスタルジックな空間や歴史を感じる建築物に対して感動する時がある。例えば辰野金吾の設計した建物群は今現存する建築家には絶対に建てることのできない所業だ。縄文時代の復元された建築物。あれらは考古学的調査に基づき、類推によって私たちの目に見える形をかたどって復元されたものといえる。ほかはディズニーランドとか。ディズニーランドの中にある建築物はアトラクションと世界観を掲げる外観は完全に切り離されている。まるで、魔法にかけられたように。一様に建築に感動したといっても、その感情の向く矛先は必ずしも建築物それ自体に向けられているとは限らない。
 例えば、日常の私たちの部屋の中だったり、長く住んできた住居を離れるときなんかも。目線の向く先に建築物があったとしても、その注目している観点は必ずしも建築物自体に向いているわけではない。名残惜しかったり、部屋を構成するものが自分になじみのあるものだったりすると、論点は少しずつずれてくるだろう。
 遺跡や過去の時代が作り出した建築物もそれら議論の対象になる。私たちがパルテノン神殿(まだ行ったことないので憶測)やフォロ・ロマーノ、あるいは法隆寺、東大寺などの歴史的に長く存続している建築物に囲まれたとき、何か壮大な気分になって心地よくなったりする。悠久の時の流れが流れ込んでくるかのような気持ちになるけれど、それは建築自体によって引き起こされたものだろうか。苦労の末に現れた開けた場所に来たことによる達成感かもしれない。
 私たちは何の目的であのような場所に行くのだろうかと考えてみると、必ずしも建築自体に打たれたい、痺れたいと考えているだろうか。

 今回の議論の発生理由は、芸術作品という本来は設置されているものとその入れ物である建築物の境界線があいまいになったことによって発生したものであったが、世の中見返してみると、建築自体に感動するような澄み切った建築体験というものは意外と少ないのではないか。様々な建築をみて感動し、あのような建物を作りたいと冀うものだけれど、その要素を分解してみると、必ずしもファクターは建築ではない。それは開けた山の峰々を見たいとか、山奥にあるからとか、町の中、あるいは自分の好きなものに囲まれる安心感だったりするだろう。

 建物を作ることで、あるいは建築物をそこに登場させることによって人々を感動させたいと思った時、建築物の造形はより個性的なものになるとおもわれる。というのも感動の主眼を建築物それ自体に置いているから。個性的、あるいは画角に収めた時映える対象物になる。それらは明らかに建築物によって感動する純経験といえるかもしれない。高松伸や渡辺豊和などの作品群は建築物それ自体によって感動を引き起こそうとしている。ダイナミックな造形に、細かなディテールの隅々まで、彼らの目が行き届いている。

 建築の何に感動したのかを細分化することは、設計者として何にフォーカスをおいているか判断するきっかけになるとそう感じたのだが、最後に振り返ってみると、奈義町現代美術館はどういう感情の処理をしたらいいのかわからなくなる。どこまでが設計者の磯崎新の意図なのだろうか。
 そういう建築でした。



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