最近、気づいたら、肩書き多い人になっていた。
昔の自分では全くありえない。
子どもの頃は、学級委員や生徒会、部活動の部長など、リーダーや、そういう人をまとめる、上に立つポジションとは全く無縁に生きてきた。
かといって、問題ある人でもなく、中心に立って常に楽しく人気ある人でもなく、地味に影から斜に構えて、「自分だっていつかやればできるんだ」と思ってるような、"あまちゃん"だった。
それが今や先生になり、教頭になり、オンラインサロンで部長までやっている。
子どもの頃の私を知る人からしたら、本当にあり得ない人生を歩んでいる。
そんな、明日どうなるかわからない人生を歩みたい、人は見た目だけではなく、いろんな面があるという人になりたい、と子どもの頃から思っていたので、なりたい自分になれていることは、この上ない幸せである。
ただまあ、今、思うことは、肩書きだけで人はそういう目で見るということである。
それは、ごくごく、当たり前のことであるのだが…。
本来、自分はそんな人ではないし、あなたの気持ちをめちゃくちゃわかるのに、それをわかってもらえないといったこととか、ある。
それは、フィルターを通して見られているなあ、立場上仕方ないなあということもある。
実際、「先生」「教頭」「夢を語るクラブ部長」というだけで、こちらが構えていなくても相手は構えている、偏見で見ている、ということは無数にある。
もちろん、そんなことは百も承知でやっている。刺し違えて殺されてもいいと思うぐらいの覚悟で日々生きている。(あくまでモノの例えです)
それは、やりたいからやっているからであり、人の役に立てると思って取り組んでいるからであり、そのために生きているからである。
だから、そこに、楽しみは目的、目標になりにくい。
トータルでうまくいくように、人の役に立つように、ということを一番に考えて取り組んでいる。
もちろん、完璧になんかできない。間違えることもある。失敗することもある。それは見えることでも見えないことでも、いろんなことがある。
それは、見えないしわからない。説明しても理解してもらえるものでもないし、そこまで伝えるべきことでもない。
つまりは、肩書きあるもの、リーダーにつきものの孤独である。
いやいや、もっと言えば、それは、全人類、誰にでもある。
それに向き合うか向き合わないかは…自由だ。
孤独は、人を成長させてくれると感じる今日この頃。
そのスタンスで生きることは間違っていないと再確認できている。
そして、自分のこの文章を思い出した。
原点だな。私のプリンシプル。
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