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井筒俊彦『意識の形而上学』で彷徨う

今回は過去記事「井筒俊彦『意識の形而上学』を読む」の続きです。その書物にある「熏習くんじゅう」的メカニズムの言葉を使い、彷徨ってみます。

と言っても、私がイメージする「熏習」は、ジュリアン・ジェインズの〈比喩語〉と相似するので、その言葉も合わせて次の図を示します。

この図は独学の具体例の一つにすぎません。

「熏習」が四つの象限を反時計回りに「保管」「修身」「対峙」「交錯」と巡れば「無明の染法」です。時計回りなら「真如の浄法」です。

『神々の沈黙』では「無明の染法」を次のように説いています。

意識は表現の具体的な〈比喩語〉とその〈比喩連想〉から生まれ、機能的な意味でのみ存在する〈投影連想〉を投影する。さらに、意識は自分自身を生成し続ける。新しい〈投影連想〉の一つひとつが独立した〈被比喩語〉となり、独自の〈比喩連想〉を持つ新たな〈比喩語〉を生む能力を持っているのだ。――pp.77-78

第一部「人間の心」 第2章「意識」

また、「熏習」の相互作用は、次のように二種類あると思います。

「保管」する「熏習」と「修身」する「逆熏習」の相互作用は、
何かを「物」にする。

「対峙」する「反逆熏習」と「交錯」する「反熏習」の相互作用は、
何かを「事」にする。

以上、言語学的制約から自由になるために。