見出し画像

與那覇潤『知性は死なない』を読む

與那覇潤(よなはじゅん)さんは、躁うつ病の体験を通して、言語と身体の二分法を見直しています。この書物の第3章にある「躁という言語、うつという身体」という節から、「精神病と性愛」という項を救っておきます。

 一般には、躁状態になると性行動にかんしても積極的になるとされています。とくに女性のばあい、メイクやファッションのセンスが完全に別人のようになるため、ずっと治療してきた医師ですら一見、ちがう人ではないかと見まちがうことがあるそうです。その状態のまま、いわゆる水商売の世界に入っていくこともあります。
 私も入院したさい、「ここに来る前に、不特定多数とやたらめったらセックスしたりとかしてませんよね」と、かなり露骨な聞きかたをされました。幸いにしてそういうことはなかったのですが、ふりかえれば、何人かの相手に不愉快な思いをさせてしまったかもしれないと感じ、そのことを心から恥ずかしく思っています。
 じつはこのような現象も、「自己」の輪郭の変化に根ざしていることを、木村敏氏はハイデガーの師であったフッサールの用語を(西田幾多郎による日本的な解釈をふまえつつ)利用することで説明しています。
 物体としての、たったひとつしかない私の身体は、知覚の対象とされるものという意味での「ノエマ的自己」です。これにたいして、「これが私だ」「私はこう考える」のように、しばしばことばで構成される精神活動のはたらきのほうを、知覚する行為そのものとしての「ノエシス的自己」とよびます。
 ノエマ的自己は基本的には、ものとしての身体にほぼ等しいので、赤ん坊として生まれた瞬間から存在し、やがてことばをおぼえて自我を確立していく過程で、ノエシス的自己が後から成立していくというのが、ふつうの見方になりそうです。しかし、「赤ん坊が物理的・空間的に閉じた物体として存在しているという客観的事実は、赤ん坊自身の……『経験』にとってはなんの意味ももたない」(傍点原文)(木村敏『自分ということ』ちくま学芸文庫、2008年、155頁)。
 おそらく赤ん坊自身の自意識にとっては、自分が閉ざされた身体だという認識自体が――いわゆる鏡像段階(鏡を見てそれが自分だと認識できる段階)以前は――存在していないでしょう。目や耳や皮膚で知覚する情報のすべてが、渾然一体とした「自分」を構成しており、いわば自己と世界が一体化した状態にあると想像されます。
 だとすれば、ノエマ的自己(身体としての自己)よりもノエシス的自己(精神としての自己)のほうが、じつは人間にとって先行する存在なのではないか、というのが、木村氏の考察です。性愛という、自分と他人の身体を重ねあわせることでノエマ的自己の拘束を抜け出ようとする営為が存在するのも、たんなる動物的な本能ではなくて、このノエシス的自己の働きかけによるのではないかとされます。
 このように考えてくると、自己というものがほんらい「自分の身体」にはおさまらないものであること、ときとしてその身体を超え出ようとするものであることがわかるでしょう。それ自体は健康な人にもあてはまる、まったく正常な現象です。
 しかし、なんらかの事情でその「超えかた」のバランスが崩れたとき、さまざまな種類の精神病が生まれると、考えることができるように思われます。

――與那覇潤『知性は死なない』増補版(文春文庫)pp.140-142

スピリチュアルな見解を育まずにいるから、言語に頼りすぎると躁状態となり、それが反転して身体に頼るうつ状態となるように、私は思います。

以上、言語学的制約から自由になるために。