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神の救いの目的

神は人を創造されるに際し、それを『自らに象り』にされたと聖書は教えております。(創世記1:27)
創世記によれば、人が『神の象り』であることが、神の目的に深く関係しています。また、神が世界に悪を許している理由にも関わっています。
エデンの園での出来事を語る創世記のはじめの部分は、淡々とした神話的な語調ではあるものの、実は人間の最大の問題点が指摘されているのです。

『神の象り』である人間というものは、知的能力に優れるだけでなく、自由意思で決定し行動する者という点で、基本的に本能に従う動物たちと異なることに創世記は注目させ、それが「禁断の木の実」についての意味であり、その自由意思の最も重要な行使が、良心の関わる倫理上の選択であり、人が神を含む他者とどのように生きてゆこうとするのかという点す。

エデンの園に植えられた二本の木はその重要性を象徴するものであり、一方は『善悪を知る木』、もう一方は『生命の木』とされ、園の中央に植えられました。
この二本の木が象徴するものは、知的創造物である人間の前に置かれた二本の道であり、自由意思を持つものとして存続するか否かを分ける最重要な選択を行わせるものでありました。彼らに与えられた自由意思に神がこれらの木を監視しなかった理由があります。

神は『善悪を知る木から食べてはならない、それから食べる日にあなたは死ぬからである』との禁令を人に課しました。
アダムもそしてエヴァも、死ぬと分かっているなら、わざわざそれから取って食べることなど考えもしなかったでしょう。

しかし、それでは彼らが死の危険を避けるために、神の言葉を守っているだけの従順なのか、それたも神を愛するので忠節を保っているのか、この命令に従順であるばかりの段階では分かりません。つまり自由意思の選択は試されていないので、アダムたちは創造されたままに従う「無垢」の状態であったと言えます。

しかし、彼らに自由意思の行為者としての決定が迫られる時が訪れます。
そのとき『蛇』を介して、悪魔という誘惑者が現れたのでした。この者は既に自由意志により倫理上の選択をし、天使の中でも最初に利己心を選び取り、神への愛から離れた悪の元凶でありました。⇒ 「悪魔の由来」

悪魔は、人類の始祖である夫婦に自分と同じ選択をさせ、倫理の自由な行為者として利己心を選び取るように誘惑を仕掛け、その目的を達成してしまいます。⇒ 「ヘビの誘惑」
この悪魔は、後に他の天使らをも誘惑して天の定められた立場から離れさせ、地上で勝手な生活をさせることにも成功しますが、ノアの大洪水によって地上から一掃され、その後は『獄の霊』即ち『悪霊』となって人間界に限定された影響力を用いて不思議を起こしています。(ペテロ第一3:19-20)
「聖書が明かす悪霊の正体と危険」

以後、悪魔は『忠節な愛』を試す「試金石」のような存在となり、地上に表れたキリストまでも誘惑しています。つまり、あらゆる自由意思を持つ創造物を試す器として、「愛」と「罪」とを選ばせる働きを果たし終えるまで存続が許されています。その結果、悪魔の司る力は「死」であり、自らを利己心から高める代償として最終的に永遠に滅ぶだけでなく、その滅びの道へとあらゆる理知ある創造物を誘惑し、死へと招きます。

自らの『象り』である自由意思を尊重される神は、『善悪を知る木』を監視されず、アダムらを支配しなかったのは、自由な選択を彼らに保つことで、忠節で変わらない愛を創造界に求めたからと言えるでしょう。
しかし、創造の結果『罪』という不完全さに陥るものが出ることは、当然神の予見するところですが、個々の創造物の善悪を決めつけることをされず、それぞれ自らが選択することを許されます。もちろん、それが自由意思というものだからです。まして、人が『神の象り』であれば、人に善を強制することは、神自らを棄損することになってしまいます。

こうして悪魔の誘惑に屈し、利己心を選び取ったアダムとエヴァは倫理上の不完全さに陥り、二本の木から悪い選択を行って無垢の状態を離れました。そのため神は『彼らはわれわれの一人のようになった』と天使たちに人間について言われます。それは人間が初めて自由意思を倫理に於いて行使するようになったことを表していることでしょう。人間は『神のように』倫理的行動を自ら行う者となったのです。その行動は彼らに他者からの視線を気にする自我意識を芽生えさせ、『裸である』ことに恥らいを覚えさせたのでしょう。

その自由意思の選択が悪いものでしたから、神は二人を『命の木からも取って永遠に生き続けないようにする』ことにします。
二人を神の創造の意図に適った楽園から追放し、いずれは寿命を終えて存在を終えるよう処置するのでした。これ以降、人間は『顔に汗してパンを食べ、ついには地面に帰る』という空しい生涯を送ることになって今日に及んでいます。
新約聖書はこの状態に至った意味を『このようなわけで、ひとりの人によって罪がこの世に入り、また罪によって死が入ってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類に入り込んだのである』と教えています。(ローマ5:12)

つまり、これはアダムが倫理不全に陥り、永遠の命を得て生き続けるべき道理を失ったことの報いです。神を含む他者とどう生きて行くべきかをわきまえなくなったものが永遠生きて良い理由がありません。それを許せば創造界は永久に神の創造の意図が実現しないことになってしまいます。


後に到来したイエス・キリストは、『あなたのご意志が天と同じように、地にもなされますように』と祈るよう人々に教えられました。(マタイ6:10)
これは、現状で神のご意志が十分に地上に行われていないことを明らかにするものでもあります。

この世は、悪や苦しみが横行する場であり、長くもない人の一生は『奴隷労働のようなもの』となっています。(ヨブ7:1)
『われらの寿命は七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生は、ただ労苦と悩みであって、その過ぎゆくことは瞬く間で、われらは過ぎ去るのです』という人の現実はまさしく聖書が述べることです。(詩編90:10)

しかし、神は人間をそのようなものとなるように創造されたわけではないので、アダムとエヴァを「楽しみ」と意味する『エデン』の園に住まわせました。彼らには、園の中の木の実を自由に食物とすることが許され、生きて行くために苦しい思いをする必要はなかったのです。


この二本の木による倫理上の試練では『愛』が問われていましたが、愛は自由な意思から存在するものです。神が人に求めた『愛』はヘブライ語の「ヘセド」つまり「忠節な愛」、または「変わらぬ愛」であり、その点でアダムたちは「忠節」とはいえませんでした。
その「忠節な愛」は自発的なものであり、命じられたり、強いられたりする善行にはその人の愛の選択が関係しないように、創造物として自由な意思の持ち主には、内面からの真の愛が求められます。
ですから、聖書は『愛する者は皆、神から生まれ、神を知っている』。また『愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです』と教えています。(ヨハネ第一4:7)

そこで、自由な意思から行動する者が、他の者と『愛』によって生きることを選ぶなら、創造界は愛の神の意図した世界となるでしょう。
しかし、被造物が利己的に生き、貪欲により他者を退ける生き方を選ぶなら、創造界は争いと苦しみの場となってしまい、それでは神の創造で意図したものとは異なる世界となってしまうでしょう。
そして実際、わたしたちの生きる『この世』とはそのような神の意志には沿わない悪と苦しみの絶えない世界となっているのではないでしょうか。

人間は、戦争はおろか犯罪をも止められず、隣人とすら平和を保ち続けることに困難があります。これがアダムから受け継いだ『アダムの罪』であり、どれほど道徳教育を受けたところで、この倫理上の問題を拭い去ることはできません。それは優れて敬虔な宗教家であっても例外ではないのです。すべての人は、聖書中で『罪』と呼ばれるアダムからの悪い影響から清められる必要があるのです。

そこで神は、『この世』を創造で意図した世界へと導き、『ご意志が地にもなされる』ようにして、乱された世界を正すことを目的とされました。そうでなければ、『この世』はいつまでも神の意図しないままになり、創造の目的も果たされないことになってしまいます。

そこで神は、人間から『アダムの罪』を清める手段を設けます。
早くもエデンの園で宣言されたその手段が『女の裔』という謎の一言で示されました。
その『女の裔』は『蛇』として表される悪魔とその裔と戦って、ついに悪魔の頭を砕いて、その影響力をすべて無に帰せしめます。

聖書の全巻に流れるのは、この両者の争いであり、人類が未だに『罪』にまとわれたまま、悪と苦しみの満ちる『この世』に生活し続けているように、『女の裔』と『蛇の裔』との決着はついていないので、『あなたのご意志が天で行われるように、地にも行われますように』と祈るべき状態も続いたままです。

しかし、この決着がつく時は必ず訪れるのであり、聖書はそれが『この世の終わり』、キリストが再び地上に介入する時期になることをも教えています。
キリストは初臨で『アダムの罪』に対する代価の犠牲となられたので、この世の罪を一身に背負われ、その処罰を代わりに受けられたので、その赦しは個人が犯した一つ一つの悪行に対するものではなく、アダムに由来する人類すべての罪を贖われたのですから、キリスト・イエスが『人はそのあらゆる罪を赦される』と教えられたのは、キリストの犠牲の価値がどれほど大きいものであるかがそこに示されています。(マタイ12:31)
但し、このキリストの犠牲による赦しを受け入れず、信じない者についらは、その贖いを受けることはできず、永遠の滅びをいう創造物としての存在を終える以外に道はありません。

この創造に関わる一連の物事の収束が現在までの神の人に対する目的であり、我々人間にとっても、エデンの園のように神から是認された状況で、『命の木』から食べ、創造された本来の栄光を取り戻し、地上で永遠の命に至るという壮大な希望がかかった最も重要視するべき事柄となります。
死すべき人間にとっての希望は『復活』にあるからです。(ヨハネ11:24)
『人は一度死んで、その後裁かれる』のであり、復活の後にその人に「エデンの問い」が命と死とを分けるでしょう。(ヘブライ9:27)
それゆえ『第二の死』は永遠の滅びを意味します。(黙示録20:12-15)

そこで、この神の目的に信仰を働かせるなら、その目的に自分をどのように役立たせることができるのかを考え行動しようとするのは、『アダムの罪』を悔い、『愛』に基づいて倫理上の良い選択を望んでいることを示すことになるでしょう。これが「キリスト教」というものの『愛』という本質です。

その姿勢は、『この世の終わり』が到来するときにその人自身を益するばかりでなく、同じ選択をしようとする人々とも助け合うことにつながるでしょう。
では『愛』と『罪』、利他心と利己心、自由意思の行使者として、あなたはどちらを選び取ることになるでしょうか。
これはキリスト教があらゆる人の前に置く、象徴的な『二本の木』となることでしょう。これが「神の裁き」で問われる事柄です。

この裁きを通して人間に『命の木』の実を取らせて理知ある創造物として完成させ、楽園の是認された立場を与え、ついに神と共に永生を歩ませるものとなるでしょう。(黙示録22:14)
こうして未だ終わっていないという「神の創造の第七日」は有終の美を迎え、神の人への目的が果たされることになります。(ヘブライ4:8-9)


別記事 ⇒「女の裔とは」

  (別ブログ) ⇒ 「人間らしさと倫理」 


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