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4.蛇の誘惑


1:神から『それから食べる日には必ず死ぬ』と言われていたアダムとエヴァが一向に善悪を知る木から実をとって食さないことに苛立つ者がいたとすれば、それは悪魔またサタンであり、アダムらが禁令に従順でいるのは神を愛のうちに尊重するからでなく、彼らが、ただ死にたくないという利己的な欲望からのものであってほしいと願ったでしょう。そうであれば、悪魔は自分に同じく利己的に行動する仲間を得られるばかりか、アダムの子孫の全体を利己心によって歩ませ、『永遠の命の木』から引き離して滅びゆく自分の側に引き入れることができるのです。

そこで悪魔は、彼らを誘惑する行動に出ます。そこでふたりの従順の動機が試されることになります。求められたのは神への『不変の愛』であり、それは究極的に神をはじめとするあらゆる他者とどう生きるかという「善悪」の問題を含みます。
まず、アダムを神から引き離す圧力を加えるのに何が効果があるかを念入りに観察したであろう悪魔は、アダムの妻に着目したことでしょう。
エヴァを『ついにわたしの骨の骨、肉の肉』と言っては、創造界に唯一の伴侶を得たことを喜んだアダムのエヴァへの深い愛着が、彼を神から引き離すのに最も効果を期待できたことは充分考えられることです。


2:アダムとエヴァにとって物陰に潜む蛇という生き物は、用心深くまた知恵深く見えていたと創世記は告げます。
悪魔は蛇を用いてエヴァに近づき話しかけます。それは声を出さない蛇があたかも話しているかのように見せたのでしょう。この蛇が実は悪魔であったことは聖書の最後の書である黙示録が『あの昔からの蛇、すなわち悪魔またサタンと呼ばれ、人類を惑わすもの』と暴露しています。(黙示録12:9)

悪魔は『あなた方はそれ食べても死ぬことはない、むしろ目がひらけて善悪を知り、神のようになれる』と蛇の背後で語ります。するとエヴァにはその実は食べるに好ましく見え始めました。つまり、「死ぬことはない」と聞き、その果実の見え方が変わり、その実はとても美味しそうで、どんな味がするのかと、初めて味わうその実に興味を強く感じていたのでしょう。
エヴァにとっては「死ぬことはない」なら神の戒めに従う必要はないと見なしたのでしょうか。彼女は、新しい果実の味の方に自分の心を向けてしまい、神への愛着や敬意を示しませんでした。これは確かに『善悪』、つまり「倫理問題」を孕んでいます。神に対して無頓着で利己的に振舞うことを選んだからです。それは引き返せない道で、神に対して不実であればあらゆる他者に対してもそのように行動するようになるでしょう。


3:こうしてエヴァはその実を採って食べてしまいましたが、神が言われたように『その日に死ぬ』ことはなかったので、自分は死なないと思い込み、ますます蛇を信じたことでしょう。ついに『蛇』は一言も食べるようには言わずにエヴァに禁令を破らせることに成功します。
後代、使徒パウロは『男は欺かれなかったが、女(エヴァ)はまったく欺かれた』と書いています。既にその『罪』によって死ぬ状態に入った彼女でしたが、後代の使徒パウロは『罪の酬いは死である』としています。この『罪』とはアダム以来人類が負ってきた利己的になってしまう傾向を指します。その『罪』ある者、つまり他者とどう生きてゆくべきかをわきまえない者に、神が永遠の命の木から取って食べることを許す道理がありません。
エヴァにとっては「神のようになる」ことはともかく、未知であった新しい味を夫にも知らせようと思ったのでしょう。(テモテ第一2:14/ローマ6:23)

そして、アダムと一緒になったときに、おそらくエヴァは普段食事を共にするときのように彼にもその果実を差し出します。そこでアダムは不意を撃たれた形となりました。それでも彼は妻を通して聞く蛇の言葉に欺かれなかったのでしょう。
つまり、彼は自分に死の危険が近づいたことを予感したでしょうし、当然、妻が既にその道に入ってしまったことも悟っています。そして、遂にアダムもその実を食べるに及びました。(創世記3:1-13)


4:後に、神から「なぜ食べたのか?」と尋ねられたときに、アダムは「あなたが一緒にいるようにと言った女が与えたので」と答えています。
この返答からすれば、神を批難するような言葉の中に、女が一緒に居るべき者であることが強調されていますので、アダムの深い愛着がエヴァにあったことを示唆しているとみることができます。
つまりアダムは、神を捨ててもエヴァを愛して運命を共にしようとする選択を行ったと推察できるのです。それこそが『蛇』がエヴァに近づいた狙いだったでしょう。

その後、彼らは自分たちが『裸であることに気付く』のですが、それは初めて行った自由意志からの選択によってプライバシーの意識が生じたのでしょう。この『裸に気付く』ことを、初の男女が性交を持った象徴と信じる人々もいますが、神はその以前から『産めよ増えよ』と両人を祝福していることからすると、それを性的覚醒と見なすのは難しいでしょう。


5:こうして、自らの意思決定で自己主張を始めた二人は、道徳的な問題での選択を行うことでは無垢の状態から倫理的存在へと足を踏み出し、自ら倫理上の決定を行ったことを通し、あたかも「神のようになった」ので、神も『彼らは我々のひとりのようになった』と言われます。つまり、それまでは従順に従うばかりであった人間の二人は、誘惑が有ったとはいえ、自らの意志を用いて善悪の決定者となっています。ついに自らの意志に基づいて倫理的に行動する者となったのです。しかもそれは悪い仕方でそうしたのです。

それは軽い問題ではありません。彼らは利己的な仕方で自らの意志を表明し、自分自身の存在の由来を捨て、創造者への感謝も忠節も示しませんでした。そこには最も基本的な悪があります。創造物である彼らが、利己心から創造の意図を外れて行ったのです。ここに聖書全巻の起点が生じ、この一点が神と人との最大の問題となって以後のすべての事柄が流れ出します。
このことは、以後の人間社会に「罪」という要素をもちこむことにもなりました。人間が「善悪を知る」とは、以後の人間社会が法を定めて仮の善悪を決めなければ秩序を保てなくなることを言うのでしょう。人は『罪』と呼ばれる利己性によって「法」という善悪判断を必要とする存在に堕ちたのです。


6:その倫理の問題である「罪」([ハッタート]的を外す)を抱えるようになった人間社会は、利己的なために「権力」によって法律を強制されたり、金銭を使った交換をしなければ社会を維持できない状態に入りました。
もし、『善悪を知るの木の実』を食べなかったなら、いずれは『永遠の命の木』から採って食べ、神の意志に沿った創造物として愛の内に永遠に生きる希望を得たことでしょう。

その後の人間は創られたままの善性を破壊され、「愛」を去って「欲」に従うことで互いに奪い争う者となってゆきます。
それが、悪魔の誘惑に従った結果であり、今日に至るまで人間の社会は倫理上の欠陥を負っていることは少し世相を見れば明らかなことです。人類は戦争や犯罪を終わらせることなどできないばかりか、隣人と問題なく過ごす事さえ易しくはない存在です。

7:聖書は『世界は邪悪な者の支配下にある』と述べていますが、それは悪魔が世界を実際に統治や指導していると言うよりは、創造の神から離れた人間が、否応なしに利己心という悪魔は拓いた道を歩んでいることを表しています。つまり、人間自身の起こす害悪が人間自身を傷つけているのです。
利己心が動かす世界は、いつの時代にも大多数の人々に苦痛と貧困を与え、それでなくても人には老化や病気がついてまわるのですが、そのうえ人はわざわざ敵意充ちる争いや搾取を付け加えて多くの苦しみを加えてきたのです。

これらが、アダムの従った悪魔の道の結果となって私達の目の前にあり、「この世」と呼ばれています。これは神が創造で意図した世界ではありません。古来、様々な宗教が「この世」の虚しさから逃れる教えを説いてきたのも、それが人間自身に解決策がない「動かし難い現実である証」といえます。『エデンの園』に置かれた人間という創造物に対して、虚しく過酷な「この世」は明らかに不釣り合いで、様々なところで人本来の性質と適合していません。そもそも人はそのような環境で生きるようには創られておらず、『この世』に最も欠けているもの、それが『愛』です。




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