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5.『女の裔』とは


1:神の創造物でありながらも、堕罪によって創造された本来の企図から敢えて離れた人間の始祖の男女について、神がこれをなお永久に存在させるとすれば、人が『罪』を負ったために創造の目的全体が永久に遂げられないことを意味します。 (マタイ6:10)
『罪』あるもの、つまり「的を逸した」というヘブライ語の意味する、創造の意図を逸した人間が存在し続けることは、神の創造の意志が完遂されないばかりか、アダムの血統にあり『罪』あるすべての人間が作り出す不完全な環境は、創造されたものすべてにとっても良いものとはなりません。始祖以来『罪』に塗れ、神の意図から外れた『この世』とは、まさにその利己心によって空しく汚れた世界となって現実まで存在してきました。   (1ヨハネ5:19)



2:利己的になって『罪』という倫理不全に陥ったアダムらに、神は直ちにその対処を宣告します。
神は自らの企図を離れた被造物には『永遠の命の木』から遠ざけさせ、寿命という生命の限界を定めましたが、これは創造者としての当然の処置と言えます。
「神を含む他者とどのように生きて行くべきかを弁えない」つまり「倫理問題」を抱えた存在には『永遠に生きる』べき道理がないからです。世相に見られるように、『罪』ある人が生み出すものは悪と苦しみに他ならず、それを永遠に存在させる謂れが神にはありません。

しかし、人間は『産めよ増えよ地に満ちよ』という神の創造の業を継続するために、次の世代を生み、育て、そうして神の創造物となるすべての人々の到来をもたらすための短い生涯を送ることは許されます。神は度々、後に現れる個人を知っていることを聖書中に何度も語っているのです。そのため神は人に『顔に汗してパンを食し、ついに地面に帰る』という今日までに見られる人間の空しい実情を定めました。(創世1:27-28/3:19/伝道1:2)

その後のアダムとエヴァには、エデンに植えられた『生命の木からも採って食さないよう』園を追われ、その木を守るために二人の天使と回転する炎の剣が置かれました。彼らは神の是認から退けられ、エデンを追われたために辛い労働によって命をつないで行くという、今日に続く現実の厳しい環境に入っていったのでありました。(創世3:22-24)

以後、個々の人が永遠に生きるものとなるかは、自らが負っている『罪』をどう見做すかにかかっています。それを悔いて『罪』から逃れることを求めるか、それとも『罪』による利己心を肯定してアダムのように悪魔の道を選択するのかによります。これが『神の裁き』となり、最終的にすべての人にこの点が問われることになります。(ローマ5:12)



3:誘惑されたとはいえ、こうして創造主である神を敢えて退けたアダムらは、神の創造物としての是認を失い、以後は悪魔と同様に倫理の基礎を失った『罪』あるものとして生きる以外になくなりました。
こうしてその子孫である人類も生まれながらに『神の子』の地位から堕ちてしまい、創造神との関わりは制限され、自分たちの方から神を知ることもできなくなり、存在の目的や生きる理由などを求めても人間同士に答えはないので、自分たち以上のものからの知識を求めて、人間は様々な宗教を考案し発達させる必要が生じました。(ヨブ34:29)
それは人類全般が、神という「上なるもの」を求める性質を持つものであることを明らかにするものとなっています。人間は被造物であり、自足者ではないからです。

しかし、宗教というものが許多有って、それぞれ異なる教えに分かれているように、神は自らを見紛うことのないほど人類に明らかに示してきませんでした。それは人が強制ではなく、信仰によって神を見出すためであり、多様な宗教は、それぞれの人の主観で人間の置かれた状況の真相を判断した結果なのでしょう。人は自ら神を探求する能力には欠けているので神の側からの教えを必要とする身の上にあります。ですから、宗教は人の判断によってそれぞれ違ったものになってきましたし、帰依する人もまちまちの教えを信じ、人は誰もが騙され易くもあります。そこで人は自ら創造の神を見出すことができず、「空虚なこの世」という難問に対し多様な推論を行って様々な宗教を作り上げてきました。(伝道1:14/使徒17:29-30)


4:それでも神は、悪魔の道に従って神から離れてしまう者らへの根本的解決方法を創世記第三章で始めて神は明かし、それが聖書全体を貫流する主題となってゆきます。その主題を成す言葉、創世記第三章十五節は次のようにあります。
『わたしはお前(蛇)と女の間に、またお前の子孫と女の子孫との間に敵意を置く、彼(女の子孫)はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕くであろう』。

このエデンで語られた句の中で予告された『女の裔(すえ)』という何者かが、『蛇』である悪魔を滅ぼして、引き裂かれた神と人間の関係を回復することを神は明かされています。聖書の全体はこの『蛇』と『女』、また両者の『裔』の戦いという謎のような主題を追って、この創世記から黙示録までに内容が展開されてゆきます。

悪魔のように敢えて創造界を乱す者らを神はそのままにはせず、創造そのものを間違った方向に進むままにはさせません。それでは創造者の意図がいつまでも実現しないことになるばかりか、創造物全体も欠陥から逃れられません。そこで、すべての人は創造の神との関係を回復する機会を誰もが一度は得ることになるでしょう。『この世の終わり』には、神の側からの印となるキリストが表されるからです。(マタイ24:3)


5:『蛇が腹這いとなって地の塵を食らう』とは、つまり悪魔が地面を這う蛇のように低められた状態に入ることを、また女の裔が『蛇の頭を砕く』とは、その『女の裔』と呼ばれる何者かに致命傷を負わされて死に至りことの予告となっています。これは悪魔を最終的に無に帰させる事を通して実現することになります。

しかし『蛇』もまた女の裔の『かかとを砕く』として傷つけることが、このエデンの場面で宣告されていたのです。これは直接にはメシア=キリストに当てはまり、確かに『蛇の裔』とされるユダヤの宗教家らの謀略によって世に到来したキリストは処刑の死を遂げることになります。しかし、復活してからのキリストは蛇にまったく勝利することを、そして最後には『女の子孫(裔:すえ/胤:たね)』として『蛇』とその『裔』つまり悪魔に組する一党の処置、つまり「女の裔」が悪魔に致命傷を与えて、悪に固執する者らが一掃されることを意味します。これが神の裁きであり、最終的に「女の裔」が勝利することにより、エデンで生じた問題も解決に至ることになります。

しかし、これが語られたエデンの場面では、これら成り行きについて明かされていないので、この『蛇』と『女』、またそれぞれの『裔』とは誰なのか、また両者の確執が何を表すかは創世記の段階では大きな謎であり、キリストという『女の裔』をはっきりと理解するには、新約聖書に書かれる時代まで待つ必要がありました。


6:確かに、キリストとなったイエスは「男の裔」とは言えません。もし、そうであればキリスト・イエスもアダムの血を受け継ぐことになり、『罪』を継承していることになりますが、人類の『罪』の赦しの代価として自らを犠牲の子羊のように捧げる『罪のない方』キリストは、『罪』に堕ちたアダムの血統にあってはならず、また一方でアダムの贖いの代価を捧げるためには人とならなくてはなりません。そこで人類の「救い主」は処女から奇跡によって人として生まれる『女の裔』であるべき動かし難い理由があり、それは早くもエデンの園で神により宣告されていたのです。(コリント第二5:21)

全知全能の神は、早くもエデンの園で後に地に遣わすキリストについて『女の裔』と呼ばれたのであり、それに留まらず、すべての『罪』と悪魔の処置の全体像を語られていたことになります。これが聖書全巻を流れる『神聖な奥義』と呼ばれるものとなり、聖書教理の根底を形作っています。(エフェソス3:4-5)


7:こうして創世記から始めて、悪魔を無に帰せしめ、人間に救いを与えるこの『女の裔』とは誰なのかという謎を巡って、以後の聖書物語が展開してゆくことになります。聖書という本は『女の裔』や、その人類を救う方法を徐々に明らかにしながら、モーセという古代の人物から聖書の編纂が始まり、以後キリストやその弟子らの時代まで、十六世紀間の長きに亘りイスラエル民族を通して描き続けられてゆくことになりました。(黙示10:7)

ですから聖書は、この一貫した主題に沿って読まれ、理解されるべきものです。聖書全巻は、この両者の対立を巡って最終的な結末を予告していますが、21世紀の今日までそれは未だに訪れていません。この結末により、悪魔によってもたらされた『この世』に在って空しく生きる人間は、堕罪前のアダムが持っていた『神の子の栄光』に回復され、ついに『永遠の命の木』から取って食べることが許され、地上は『天と同じように神の意志が行われる』ところとなるでしょう。(ローマ5:21/マタイ6:10)

これが『神の裁き』であり、人々にはあらゆる他者、つまり神と人とに愛の絆で結ばれることを選ぶなら、永続する神の創造物とされるでしょう。
関係するのはその人の内面であり、『罪』を悔いて『愛』を選び取らねばなりません。これこそは倫理の問題であり、個々の人の内面が試されるべきものです。
ですから、今現在、誰かがキリスト教徒となっているかどうかに神の是認は関わりません。思想や宗教、立場や評判に関わらず、すべての人はアダムのように悪魔の試みを克服する必要があり、それは『神の裁き』の日に信仰を働かせるか否かを通して問われることになります。信仰は『愛を通して働く』のであり、その人の愛は信仰となって裁きの日に表されることでしょう。それが『神と人とを愛する』印です。(ガラテア5:6/マルコ12:29-31)



⇒ アブラハムとその裔

-「聖書の最初を知る」シリーズの終わり -

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